救いの恵みを忘れるな

  • 6月11日
  • 聖書箇所:申命記32:7~18
  • 説教:大友英樹牧師

ペンテコステ礼拝や教会の創立記念礼拝がありましたので、しばらく申命記から離れていましたが、再び申命記32章のモーセの歌を取り上げたいと思います。モーセの歌というのは、約束の地、カナンの地に入ることができないモーセが歌ってるわけですが、将来を見据えて警告となるような歌であります。

これから先、イスラエルの民がカナンの地に入っていきまして、12の部族ごとに土地を分割しながら移り住んでいくことになります。その様子はヨシュア記や士師記に語られているいます。イスラエルの民がカンナの地に入るのは、BC1250年頃であります。それから200年ぐらいの間、土地の分割と士師と呼ばれる指導者が立てられいきます。特に士師記を読みますと、順風満帆であったとは言い難いイスラエルの民の姿があります。
そこには世代が代わると、出エジプトの救いを与えてくださった主なる神を離れて悪とされることを行い、特にバアルと呼ばれる偶像の神を慕い求めるようになります。すると主は怒りをもたらし、イスラエルの民をミデアンやアマレクという遊牧の民の略奪に任せられます。イスラエルの民が悔い改めて主を求めると、士師と呼ばれる指導者が起こされ、その間は平穏の時がもたらされる。そういったことが繰り返されるのであります。モーセの歌はそうした士師の時代を見据えるようにして、歌っているところがあります。一つの警告の歌であると言っていいと思います。今日は7節からのところになりますが、二つのことに心をとめたいと思います。

まず一つめは神の御業を語り告げるということです。7節《昔の日々の思い起こし、代々の歳月を顧みよ。あなたの父に問えば、答えてくれる。長老たちも、あなたに話してくれる》。昔話というのがあります。「昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんがいました」とはじまると、日本では何を思い起こすでしょうか。おそらく桃太郎の物語を思い起こすことが多いかと思います。隣国の中国や韓国であれば、また違う物語を思い起こすに違いありません。
しかしここでモーセが《昔の日々を思い起こし、代々の歳月を顧みよ》と歌うのは、そうした日本人が桃太郎の物語を思い起こすこととは違います。《あなたの父に問えば、答えてくれる。長老たちも、あなたに話してくれる》。それはどういう物語でありましょうか。それは神の物語です。神さまがなしてくださった御業の物語です。それはイスラエルの民になされた神の御業でありますが、桃太郎のように日本人にしか通用しないような小さな物語ではありません。神はイスラエルだけの神ではない。全世界の神、世界の創造者であり、主権者であり、いと高き方であります。その神の物語です。それはたしかにイスラエルの民になされた神の御業でありますが、しかしそれは神の選びによります。全世界に神の御業をもたらすために選ばれたのです。創世記12章でイスラエルの父であるアブラハムが選ばれたのは何のためだったでしょうか。《あなたは祝福の基となる。…地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される》。アブラハムが選ばれたのは、地上のすべての氏族の祝福の基となるためであります。アブラハムからはじまるイスラエルの民の祝福のみならず、すべての民の祝福のために選ばれたのであります。ですからイスラエルの民になされた神の御業は、すべての民になされた神の御業でもあるわけです。それが世界大の大きな神の物語であります。私たちは桃太郎のように小さな物語も大切ですが、神の物語の中に生きることがより重大であります。

神の物語に生きる。神のなしてくださった御業の中に生きる。それが神のかたちに創造された私たち人間にふさわしいことです。神を賛美し、神に祈り、神との交わりに生きる。それこそが私たち人間にふさわしい。神のなしてくださった御業の中に生きるためには、それが語り告げられることが求められます。それゆえに父は問われる。長老たちは問われるのであります。神のなしてくださった御業とは何ですと。聖書は何と語っているでしょうか。《あなたの父に問えば、答えてくれる。長老たちも、あなたに話してくれる》。このとき神のなされた御業がわかりませんと答えとすればどうでしょうか。そこで信仰の継承が失われます。実際に信仰が継承されるかどうかは別の課題でありますが、ここで問われているのは、神のなしてくださった御業を語り告げているかとということです。《あなたの父に問えば答えてくれる。長老たちもあなたに話してくれる》とありますが、神は何をなしてくださったのかと問う家庭の子どもに、教会の集う子どもに、語り告げているか。サンデースクールに奉仕者が求められるのは、それを語り告げなければならないからです。イエスさまは聖書は私について証ししていると言われますから、新約の恵みに生きる私たちとしては、神のなしてくださった御業は、イエスさまの救いの御業である。イエスさまの十字架と復活によって罪の赦しと永遠の命をもたらす救い御業であると、はっきりと語り告げることが求められます。

二つめは神の救いの恵みを忘れないことです。10節からお読みします。《主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ、彼を抱き、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。鷲がその巣を揺り動かし、雛の上を舞い、羽を広げて雛を取り、翼に乗せて運ぶように、ただ主だけが彼を導き、異国の神は共にいなかった》。ここには神さまが出エジプトの救いを与えてくださって、40年の荒野の旅を導かれて、約束の地に入れてくださり、豊かな食物を与えてくださる様子が歌われています。印象深いのが、鷲がその雛を翼に乗せて運んでいく様子であります。まだうまく飛べない雛を翼に乗せながら、少しずつ自分で飛べるようにと養い育てる姿があります。そのように神さまは様々なことが起こる中で、決して翼から落として自分で勝手に飛んでいけと見放すことなく、約束の地まで運んでくださった。神さまの救いの恵み、それは自分で得たのではなく、神さまが御自分の瞳のようにいたわり、愛し、守り、導いてくださったゆえに与えられたものであります。ただ今あるは神の恵みなのです。救いは神の恵みです。私たちには救いを受ける権利などない。創世記3章が語るように、神から離れて罪に落ちたのは、神のごとくにならんとした自分のなしたことなのですから、私を救ってくださいとは言える立場にはありません。しかし神さまはエデンの園から追放されるにあたり、皮の衣をつくり、人間に与えてくださいました。神さまは人間をそのまま見捨てるお方ではありません。人間を救おうとその御業をなされます。聖書はその神の救いの御業が語られます。神さまには人間を救わなければならない義務はありません。そんな神の救いの御業が、鷲が雛を翼に乗せて運ぶことに象徴されます。神の恵みの御業です。神の愛の御業です。

モーセはそうした神の恵みを忘れるときに、15節からのところに《しかし、エルションは肥えると、足で蹴った》とあるように、神さまを忘れてしまうという警告を語ります。肥え太り、かたくななになり、自分を造った神を捨て、侮り、怒らせ、自分に都合の良い彼らの知らなかった神々、新しい神々に心を向けていくようになるというのです。神の恵みに鈍感となるときに、高慢という罪が湧き出てくる。新約の恵みからすれば、神の御子イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた罪の赦しの絶大なる恵み、罪のもたらす報酬である死からの復活の絶大なる恵み、私たちに生きる喜びをもたらし、生きる勇気をもたらし、生きる使命をもたらす絶大なる恵み、自分ではどうすることもできない罪の縄目から解放し、死の恐れから自由をもたらす絶大なる恵み。そんな神の恵みを忘れてしまうとき、モーセの歌は19節からのところに、高慢のもたらす恐ろしい裁きが歌われます。神の恵みを忘れることへの警告であります。

今日の礼拝の招詞は詩編103ですが、《わが魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな》とあって、引き続いて神さまのなしてくださる御業が歌われます。《主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病をすべて癒す方。あなたの命を墓から贖い、あなたの慈しみと憐れみの冠をかぶせる方》。イエスさまの十字架と復活がもたらす御業であります。その御業を、その恵みを忘れるな。6月はホーリネスの群では、四重の福音強調月間としています。四重の福音とは新生、聖化、神癒、再臨という4つの福音ということですが、私たちが救われるとはどういうことなのかを言い表したものです。まず私たちが救われるのは。イエスさまの十字架と復活を信じて罪赦され、新しく生まれ変わり、神の子とされるということからはじまります。エフェソ2章には《あなたがたが救われたには恵みによるのです。…あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それはあなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません》とあります。

ただ神の恵みによる。イエスさまを私の罪の赦しのために十字架にかけてくださったのは神さまです。私たちが要求することなどできません。ただ神の恵みによります。ただ私たち一人一人もイエスさまという鷲の翼に乗せられた雛のごとく、ただ罪の滅びの中に落ちるだけの者を十字架という翼を広げて持ち運んでくださった恵みによって今あるのです。今あるは神の恵みなのです。新聖歌263に「罪、とがを赦され神の子とせられ、大いなる喜びわれにあり」とありますが、その神の恵みを、救いの恵みを忘れてはならない。神の救いの恵みを忘れてはならない。

救いの恵みを忘れるな
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