賛美を住まいとされる神

  • 6月4日
  • 聖書箇所:詩編22:2~6
  • 説教:大友英樹牧師

赤羽教会の創立記念礼拝であります。
1951年6月3日にこの場所に教会堂を建設し、献堂式を行いました。この日を創立記念日としています。教会総会の議案報告書にも書いてありますが、赤羽教会は二つの教会が合併してはじまりました。

戦前から赤羽で伝道してきた赤羽教会と新宿の牛込矢来通教会が合併することになります。6月はホーリネスの群では戦時中の教会弾圧を覚えて弾圧記念聖会を開催していますが、赤羽教会も牛込矢来通教会も弾圧を経験して解散させられました。赤羽教会は空襲で焼けることはありませんでしたが、建物疎開で取り壊されたそうです。牛込矢来通教会は空襲で焼けてしまい、戦後の復興が難しかったようです。牛込矢来通教会は現在の地下鉄東西線神楽坂駅があるところにあったそうです。戦後、アメリカの教会は空襲で焼けてしまった日本の教会のために献金をささげてくださいました。ホーリネスの群の関係では淀橋教会や小松川教会、仙台青葉荘教会などが援助をいただいて教会堂の再建をしました。牛込矢来通教会もそうした献金を受ける資格がある教会でしたが、信徒が塵尻になってしまい教会復興が難しく、赤羽教会の方は信徒はいても牧師がおらず、信徒の家庭に集まって集会を守っていました。そこで二つの教会を合併して、土地を確保して、アメリカの教会からの献金をいただいて教会堂を建てることになりました。それが72年前になります。当時のことを高山先生のご子息の高山巌さんが書いておられます。1951年1月に赤羽に引っ越してきて、6月に献堂式まではしばらく仮住まいをしていました。当時は教会だけが建っていて、周囲には家が建っていなかったということです。6月3日の献堂式ではホーリネスの群委員長の小原十三司先生が説教してくださいました。そこから数えて72年ということになります。そのような創立記念礼拝におきまして、今年の教会聖句の詩編22:4を心に留めたいと導かれております。

詩編22編については新年のときにも取り上げましたし、その前にもイエスさまの十字架との関連で学ばせていただいたことがあります。イエスさまが十字架上で語られた七つの言葉に、《わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか》という言葉がありますが、それはこの詩編22:2の御言葉であります。十字架の上のイエスさまは、神の御子でありながら、神から見捨てられるという苦しみを味わいます。それは体の痛み、苦しみとともに、それ以上の苦しみであったことであります。ヨハネ10章のところで《私と父とは一つである》と語られたイエスさまでありますが、その交わりが失われる。見捨てられるのです。申命記21章で学びましたように、《木に掛けられた者は神に呪われた者》であります。イエスさまは十字架によって、私たち全人類が負っている律法の呪い、罪の呪いを引き受けてくださいます。神から呪われた者となってくださる。ご自身の命を犠牲として、贖いとしてささげてくださいます。その御子イエスさまの十字架の苦しみ、叫びの声が、詩編22編の《わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか》であります。詩編22編はいくつかのところに、イエスさまの十字架のときに行われたことが語れます。《主に任せて救ってもらうがよい》とのあざけりの声、《素焼きのように乾ききり、舌が上あごに張り付く》とあるようにイエスさまは「渇く」と語られます。十字架の下では、人々がイエスさまの衣をくじで引いて分け合う。詩編22編はそのようにイエスさまの十字架と重なりあいます。

しかし詩編22編はただ嘆きの歌であるのではありません。イエスさまは確かに冒頭部分の御言葉を語られました。神に見捨てられる。呪われるのであります。それは十字架の上でのイエスさまの実際の姿であります。神の御子が見捨てられる、呪われる。それなしに救いはない。イエスさまもそれなしに救いはないことをご承知です。だからといって、十字架はいと安きことではありません。あり得ぬことが起こる。神に見捨てられるはずがない神の御子が見捨てられる。呪われるはずがない神の御子が呪われる。イエスさまの「わが神、わが神」という言葉は真実です。しかしこの詩編は嘆きで終わるものではありません。神への信頼、神へのほめたたえ、神への賛美がうたわれます。それゆえに、イエスさまの十字架は、ただ嘆きではない。ただ苦悩ではない。神への信頼、ほめたたえ、賛美があふれる。教会聖句の4節だけではなく、23節からのところには「賛美しよう」、「賛美せよ」、「賛美する」と繰り返されます。私たちの主なる神さまは賛美をささげるのにふさわしいお方であるからです。

今日の聖書の御言葉、22:4について、いくつかの聖書翻訳を読んでみますと、なぜ神さまに賛美をささげるのかという理由が教えられます。この御言葉は2つほどの翻訳の系列に分かれます。詩編は詩でありますから、普通の文章にように訳すことが難しいところがあります。短い詩の言葉がどのようにつながっているのか。前につながるのか、後ろにつながるのかという具合で訳し方が違ってきます。ここには2つのほどの翻訳の系列があります。

第1は私たちが読んでいる聖書のように、《イスラエルの賛美の上に座する方》と訳すものです。神さまは聖なるお方です。それは私たちとは区別されるお方、私たちの創造者、近寄りがたきお方です。そのお方がイスラエルの賛美の上に座するお方であられるというのです。
神さまはどこにおられるのでしょうか。私たちはイエスさまから祈りを教えていただきました。「天にまします我らの父よ」。神は天におられます。創世記のはじめに、《はじめに神は天と地を創造された》とありますが、ご自身が創造された天におられる。永遠のかなたではなくて、ご自身が創造された天に神は来てくださる。しかしその天も地にある私たちからすれば、はるかかなたであります。そんな神さまが、地にある私たちのところにまで来てくださる。それが神の臨在です。詩編139編は神の臨在は天に登ろうとも、陰府にあっても、海のかなたにあっても、いずこにもおられるとうたいます。そのとおりでありますが、しかし確かに、確信をもって、ここに神が臨在されると信じることができ、語ることができ、触れることができるのは、神は賛美の上に座したもうということです。天の王座におられる神さまは、私たちのささげる賛美の上にその王座を置きたもうのであります。

イザヤ書6章にイザヤが神さまの臨在に触れました。天の王座に着き給う神さまの衣の裾が神殿に満ちている。イザヤは「災いだ。私はもうだめだ」と畏れおののきました。私たちが神に賛美をささげるとき、イザヤが経験したことことが起こっています。賛美をささげる私たちの上に、天の王座に座したもう神の衣の裾が満ちている。神の王座は私たちのささげる賛美であります。神はどこにおられるのか。天の王座におられるだけではありません。私たちのささげる賛美こそが神の王座であります。神はいずこに座したもうでしょうか。どこに座りたいと願っておられるのでしょうか。神が賛美されているところです。神が賛美されている教会です。神を賛美する私たちの上に神は座してくださいます。

二つめの系列は、文語訳聖書が訳しているものです。《イスラエルの讃美のなかに住みたもうものよ》と訳されています。新改訳聖書でも《イスラエルの賛美を住まいとしておられます》となっています。新改訳の方は、ワーシップの歌詞にもなっているものです。《イスラエルの賛美の上に座する方》という聖書の言葉は、「留まる」という意味もありますが、そこから「住む」という意味もある出てくるわけです。神さまはイスラエルの賛美の上に座したもうお方であるばかりか、賛美のなかに住みたもうお方であります。賛美の上に臨在されるばかりか、賛美のうちに臨在されるお方であります。

Ⅰコリント12章に賛美をささげているということではありませんが、礼拝をささげている文脈のところで、《ひれ伏して神を拝み、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表すことになるでしょう》とあります。「神はあなたがたの内におられる」。それは礼拝に集う人々の間にということでもありますし、人々の心の内側にということでもあります。神さまはどこにおられるのでしょうか。イスラエルの賛美のなかに住みもう。礼拝の内に、賛美の内に臨在される。そこを住まいとされる。神さまの住まいとしてふさわしいところはどこでしょうか。ソロモンが荘厳の神殿を建てたとき祈りました。《神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることなどできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです》。どんなに壮麗な礼拝堂であろうとも、それだけで神はお住まいになりなりません。賛美なきところに神は住まわれないからです。しかしどんなに素朴な礼拝堂であろうとも、そこに賛美が満ちているところに、《イスラエルの讃美のなかに住みたもう》お方がおられます。賛美をささげる者のうちに住みたもう。教会は神の住まい、神の家であります。そこには賛美が満ちているからです。

イスラエルの賛美の上の座する方、そしてイスラエルの賛美のうちに住みたもうお方。賛美の上に、賛美のうちに、神は臨在したもう。それゆえに賛美には力があります。ナチス・ドイツの時代の小さな村の教会の物語があります。日本訳では『嵐の中の教会』と言います。ナチス・ドイツに抵抗する告白教会の立場を取った牧師と教会の物語で、牧師がナチス・ドイツの秘密警察に逮捕されるまでの3年間の物語です。村人たちの集う教会にもナチス・ドイツの勢力が押し寄せてきます。牧師は懸命に聖書の福音に立ち、キリストのみを主とする信仰を語り続けます。村人たちにも牧師に反対してナチス・ドイツに従おうとする者、牧師を支持して抵抗しようとする者がありました。そうした中で村人を励ましたのは牧師の説教と聖餐であり、そして賛美でありました。礼拝を妨害しようとするナチス・ドイツの支持者が教会の扉を叩く中で、賛美歌「神はわがやぐら」を賛美し始めます。賛美の上に座し、賛美の内に住みたもう神さまが、村人たちに勇気を与えます。

6月は私たちのホーリネスの群にとっても弾圧の覚えるときでありますが、いつ、いかなる時代でも、イスラエルの賛美の上に座する方が、イスラエルの賛美を住まいとされる方が、私たちの神でありま
す。賛美のあるところに神はおられる。賛美の上に、賛美の内におられる。賛美に満ち溢れるほど、神の臨在も満ち溢れる。賛美を失ってはならない。主を賛美することが私たちの力であるからです。

賛美を住まいとされる神
トップへ戻る