聖霊がくだるとき

  • 5月28日 合同礼拝
  • 聖書箇所:使徒言行録1:6~8
  • 説教:大友英樹牧師

《 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける》。

今日はペンテコステを迎えました。使徒言行録 2 1 には五旬祭の日とあります。旬というのは 10 日間ということですから、 10 日間が 5 回で五旬祭です。 旧約聖書以来、 イスラエルの三大祭りの一つでありました。 申命記 16 章には男子は皆年に三度、祭りを祝うようにと命じられています。それはモーセを通して出エジプトをした過越の祭り、次にシナイ山でモーセを通して十戒が与えられ神と契約を結んだ七週の祭り、そしてモーセを通して 40 年の荒野の旅を導かれた仮庵の祭りであります。七週の祭り、これが五旬祭ということです。 聖書 には五旬祭にあたる言葉が ペンテコステ なので、そのままペンテコステと呼ばれることが多い祭りです。

いつから50 日なのでしょうか。使徒言行録では 1 3 に《イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使 徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された》とあります。イエスさまは十字架、そして復活から 40 日にわたってご自身を現わされます。そして大切なことをお命じになりました。 4 節《エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを受けるからである》。聖霊のバプテスマを受けるようにという命令であり、約束であります。

聖霊のバプテスマというときに、2つのことがあります。
一つはイエスさまを信じて、救われること、罪赦されて、新しく生まれ変わり、神の子とされることです。ヨハネ福音書 3 章で、イエスさまがニコデモと対話している場面で、「新しく生まれなければ神の国を見ることができない」と言われました。ニコデモがよく分からなかったので、さらにイエスさまは「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができない」と言われました。水と霊、洗礼を受け、聖霊をいただくことです。聖霊をいただいて、イエスさまを信じて、洗礼を受けて、クリスチャンとなるということです。それが第 1 の聖霊のバプテスマです。

もう一つがクリスチャンに与えられるところの聖霊のバプテスマです。聖書では、例えばパウロが書いているローマ書を読みますと、私の内の古い人がキリストと共に十字架につけられたと語られています。それは別の箇所では私の内に住んでいる罪とも言われています。罪の源泉のようなものです。聖書はそういう罪の源泉のようなものは、イエスさまの十字架の血潮によってきよめていただけると語っています。それがホーリネスの群が強調しているきよめの恵み、ホーリネスの恵みであります。イエスさまの十字架の血潮が、私の内に住んでいる罪の源泉のようなところにまで注がれて、きよめてくださっていると信じること、それが聖霊のバプテスマと呼ばれる恵みです。

今日は第1の方の聖霊のバプテスマについて注目したいと思います。
イエスさまが40日の間にわたって神の国を教えられてから、エルサレムの東にあるオリーブ山から天に上げられる、昇天されることになります。そのときから10日後、五旬祭のとき、ペンテコステのとき、イエスさまが約束された聖霊が降り、聖霊のバプテスマが与えられることになります。まず聖霊が降ったのは弟子たちであります。イエスさまが天に帰られてから、10日間、弟子たちを中心にして120名ほどの人々が集まり、「約束の聖霊の注いでください」。「聖霊のバプテスマを与えてください」と祈りをささげていました。ペンテコステの日、同じように皆が集まっているところに、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、家中に響きわたります。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまります。
すると、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに話し出します。しかも他国の言葉で話し出したというのです。ガリラヤの漁師であった弟子たちは、日頃はアラム語、共通語のギリシア語を少しは話せたかもしれませんが、エルサレムに祭りのために来ていた当時の天下のあらゆるところから集まっていた人々の故郷の言葉、メソポタミアの言葉、エジプトの言葉、小アジアと呼ばれる後にパウロが伝道することになる地方の言葉、ローマの言葉というように、神の偉大な御業を語りはじめたのであります。
《あなたがたの上に聖霊が降るとき、あなたがたは力を受ける。…私の証人となる》とイエスさまが約束されましたが、他国の言葉で語り出すという力が与えられて、イエスさまの証人となります。ペトロは代表して立ち上がって語りはじめます。教会のはじめの説教です。これはヨエル書3:1からの約束の成就です。

《終わりの日に、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ》。終わりの日というには、神さまの救いの御業が現れたときということです。神さまの救いの御業が成就されたときです。イエスさまの十字架と復活がそのときなのです。それゆえに約束の聖霊が注がれたのです。ペテロは語っています。《神はこのイエスを復活させられたのです。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。…あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです》。すると聖霊のバプテスマが、このペトロの語る言葉を聞いていた人々に注がれたのであります。2:37に《人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言った》とあります。ここには聖霊とはありませんが、「心を打たれて」とあります。ここに聖霊が注がれるときに経験することがはじまります。「心を打たれる」、心を揺さぶられる、心を騒がせる。《あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです》との御言葉に打たれるのです。「あなたがた」の中に私がいるということです。

先週の日曜日の午後、三浦綾子さんの原作の塩狩峠の映画を皆さんでみました。その中で牧師がイエスを神の子と信じるという主人公の永野信夫に言います。「なぜイエスが十字架にかかられたのか知っていますか」。「キリストが君のために十字架にかかったということ、いや、十字架につけたのはあなた自身だということをわかっていますか」。永野信夫はそれがわかりませんでした。牧師は言います。「罪という問題を、自分の問題として知らなければわかりようのない問題なんでよ」。やがて永野信夫は傲慢の罪に気づかされて、この私の罪のためにイエスさまが十字架に死んでくださったと信じることができるようになります。
そのように教えてくださるのが聖霊です。イエスさまはヨハネ福音書16章で聖霊が罪について、義について、裁きについて教えてくれると言われました。このペンテコステの時もそうです。人々はペトロの語る言葉を聞いて、聖霊によって心打たれて、罪が示されて、この私の罪がイエスさまを十字架につけしまったのだと心揺さぶられる。

《兄弟たち、私たちは何をすべきですか》。聖霊が注がれるとき、まず私の罪が明らかになります。聖書は十戒を通して、私たちに罪について教えています。そして淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒におぼれる者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心と罪の一覧がつづられます。そして罪の支払う報酬は死であります。聖霊はそれを罪と教え、心を打たれる。そして何をすべきなのかと求めさせます。

《悔い改めなさい。めいめい、イエスの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう》。なすべき3つことが示されます。第1は悔い改めなさい。それは方向転換です。イエスさまの十字架の方に向いて、私の罪のためにイエスさまが十字架にかかられたことを感謝し、信じ、受け入れます。第2は洗礼を受けることです。イエスの名によって洗礼を受けるということは、イエスさまのものとなるということです。イエスさまが私の主であり、私はイエスさまに従う者ですと告白するクリスチャンとなることです。第3は聖霊の賜物を受けることです。Ⅰコリント12章に聖霊の賜物のリストがあります。

最後に聖霊が降るとき、何が起こるのでしょうか。2:42《そして、一同はひたすら、使徒の教え、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた》。聖霊が降るとき、イエスさまを信じる教会が起こります。教会での礼拝がはじまります。今日の私たちの教会でも使徒の教えとして、聖書が読まれ、説教が語られ、そして聞かれます。交わりがあります。礼拝は神との交わりであり、礼拝をささげる私たちの交わりです。使徒信条にある聖徒の交わりと言われるものです。パンを裂きます。それは聖餐式です。イエスさまが十字架にかかられるに際して、これは私の体、私の血として新しい契約として聖餐式を行うようにと命じられました。聖餐は洗礼を受けた者たちのイエスさまとの契約の交わりです。罪の赦しを確かなものとし、イエスさまを心の内にお迎えし、一つとなり、きよめられる。そして祈りをささげます。47節ではさらに《神を賛美していた》ともありますから、賛美もそこに加えることができます。聖霊が降るとき、教会が生まれ、人々が集められ、礼拝がささげ、神に賛美がささげられます。私たちにも今日、聖霊が注がれているゆえに、礼拝に共に集められています。
《あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける》。神の霊、聖霊が私に、そして私たちに、私たちの教会に今日も注がれていると信じることができることは幸いです。

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