私のほかに 神は ない

  • 6月18日
  • 聖書箇所:申命記32:36~42
  • 説教:大友英樹牧師

申命記32章のモーセの歌が、イスラエルの民の将来を見据えるようにして歌われています。今、イスラエルの民はヨルダン川を渡って、約束の地、カナンの地に入ろうとしています。神さまは鷲がその雛を翼に乗せて運ぶように、イスラエルの民を選び、救い、導いてきてくださり、いよいよ約束の地に上らせてくださいます。

聖書で言えば、この後のヨシュア記や士師記、さらにはサムエル記、列王記が語り伝えるような歩みがはじまるわけです。それは決して順風満帆なものではありませんでした。神さまへの信仰が揺らぐようなことの多いものでありました。モーセが15節で《エルションは肥えると、足で蹴った》と歌うように、自分を造った神を捨て、自分を救った神を侮るようになる。そしてバアルの神々をはじめとする偶像なる神々に心寄せられていく。

列王記上18章でのカルメル山でのエリヤとバアルの預言者の対決を思い起こさせます。神を忘れてしまう。見失ってしまう。それは自分の存在の根拠を忘れてしまうことです。15節からのところには繰り返し《自分を造った神を捨て、自分を生んだ岩を侮った。…自分を生んだ岩を忘れ、自分に命を与えた神を忘れた》と歌われています。

19節からのところは、そのような神の恵みを忘れ、偶像なる神々に向かったイスラエルの民がどんなふうになったかを歌います。しかし神さまはそうした神の恵みを忘れたイスラエルの民をそのままに見放すことはありません。彼らには思いもよらないことでしょうが、神さまはどんなに足で蹴られても、かたくなに神を捨て、侮り、忘れてしまったとしても、神が神であることには変わりがありません。新約聖書のパウロの言葉に、イスラエルの民について《神の賜物と招きは取り消されることがないからです》とあるように、神さまはイスラエルの民を見放すことはありません。摂理の神として、臨在の神として、救いの神として、常にイスラエルの民に寄り添われます。36節《主はご自分の民を裁き、僕らを憐れむ》。

「裁く」とありますが、「治める」や「かばう」と訳している聖書もあります。怒りをもって裁くというよりも、彼らは考えてもいないけれども、神さまが彼らを治め、かばい、そして憐れんでくださっています。それゆえに再び語りかけ、宣言されるのであります。39節《今こそ見よ、私、私こそそれである。私のほかに神はいない》。この39節には「私は」アニーという言葉ですが、4回繰り返すほどに神さまの強調があります。あなたがたは偶像なる神々に祈りをささげていて、考えてもいないかもしれないけれども、あなたがたをこれまで導いてきたのは、助けてきたのは、《私、私こそそれだ》と語られます。もう一度、あなたの神に立ち帰れというメッセージでもあります。ぐらついてしまっている神への信仰にはっきりと立ちなさい。あなた造り、救い、命を与えたイスラエルの神に立ち帰りなさい。

旧約聖書のギリシア語訳聖書があります。エジプトで訳されたとされていますが、共通語であるギリシア語に訳されたことで、多くの人々に理解されるようになりました。新約聖書に旧約聖書が引用されるときに、ギリシア語訳からの引用もよくなされています。そのギリシア語訳聖書をみますと、39節は《おまえたちは知るのだ、知るのだ。私が存在することを》と訳されてます。知らなければならないことがあるというのです。神が存在されることを知らなければならない。それは神がおられるのだなと何となく感じているということではありません。ましてや偶像なる神々のことではありません。《私のほかに神はない》ということを知らなければならない。神をはっきりと知らなければならない。求められることは、はっきりと神を知ることです。

神をはっきりと知る。私のほかに神はないと言われる神をはっきりと知る。それではその神さまはどのようなお方なのでしょうか。まず第1に知りたければならないのは、神は愛なるお方です。36節《主はご自分の民を裁き、僕らを憐れむ》とあります。裁くというのは、先ほどもお話ししましたが「治める」とか「かばう」と訳されている聖書もありますように、厳しく裁くというよりも、神さまがまことの主権者としてすべ治められ、どんなにご自分を足蹴にし、かたくなになり、恵みを忘れてしまったとして、包み込んでくださるようなお方であります。

さらには少し前の21節には《彼らは神ではないもので私の妬みを引き起こし、空しいもので私を怒らせた》とあります。「私の妬みを引き起こした」と神の妬みが語られています。英語の聖書ではジェラシーとなっています。神が妬むということです。これは申命記5章の十戒の第2の戒めに、偶像礼拝の禁止ということが命じられているところで、《私は主、あなたの神、妬む神である》とあるのと同じです。新共同訳聖書では「熱情の神」と訳していました。

神さまが妬む、ジェラシーを感じるということは、神のみにささげられるべきものが、神ならざるものにささげられているということです。神さまは熱情をもって、すべてをもって愛してくださる。その愛に応えるのに、神さまわたしはあなただけにささげますというように、同じ熱情をもって応えることが期待されています。神さまは妬むほどに、愛してくださるお方です。

2つめに知らなければならないのは、神は救いたもうお方です。39節に《私は殺し、また生かす。私は傷つけ、また癒す。私の手から救い出せる者はいない》。生殺与奪の権は神さまにあります。ヨブも《主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように》と語りました。《私の手から救い出せる者はいない》ということは、神さまは究極の救済者であります。私たちは新約聖書をもっていますから、この究極の救済者こそ、御子イエス・キリストであることを知っています。神は御子イエス・キリストを私たちの救いのために人としてお遣わしくださり、十字架にささげてくださり、世の罪を贖う小羊としてくださいました。イエスさまご自身、《多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た》と言われます。ご自身を十字架にささげ、命をささげてくださり、3日後に復活してくださいました。この十字架と復活の御業、これは罪の贖い、罪の赦し、罪の救いの御業であります。

エフェソ2章には《あなたがたは、過ちと罪とのために死んでいた者であった。…しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛しされた大いなる愛によって、過ちのゆえに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスにおいて共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました》とあります。ただ神は生殺与奪の件をもたれるだけではありません。罪が人を死に追いやります。罪が支払う報酬が死であるからです。ですから、聖書は罪の中にある者は死んでいるといいます。体は生きていますが、霊的には死んでいる。その死から生けるものに変えられる。新しい命が、神の命が与えられる。それが神が御子イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業であります。それゆえに、《私の手から救い出せる者はいない》、これに代わる救いはない。究極の救済者であります。神は罪によって死にたる者を、イエス・キリストにあって生ける者に変えられる。

そして三つめに知らなければならないことは、神は永遠なるお方です。40節《私は手を天に上げて誓う。私はとこしえに生きる》。神が神ご自身に向かって手を上げて誓われます。私はとこしえに生きる。神は永遠なるお方です。永遠というのは、時間がずっと続いてつながっていてということではありません。私たちの時間、この世界というのは、神の創造の御業でありますから、永遠ではありません。ですからもし仮に、この時間の終わり、世界の終わりまで生きていたとしても、それは永遠に生きることにはなりません。永遠というのは時間で測ることができるものではありません。測ることができるものは永遠ではない。それを越えている。神が《私はとこしえに生きる》と言われるのは、この世界が終わっても、私は生きているということです。どこで生きるのでしょうか。天において生きるということができます。しかし天もまた神の被造物でありますから、さらに天を越えてとこしえに生きているということでありましょう。いずれにしても、神は永遠なるお方です。そして永遠なるお方は、ただお一人です。天地を創造された神お一人であります。

妬むほどに愛してくださり愛なるお方、罪に死ねる者を救いたもうて神の命を与えてくださる救いたもうお方、そして永遠に生きたもうお方。それが私たちが礼拝をささげ、賛美をささげ、祈りをささげ、自分をささげる神であります。《今こそ見よ、私、私こそそれである。私のほかに神はいない》。神さまは熱情をもって愛してくださり、御子をささげる愛をもって救ってくださり、永遠に変わることなく神であられます。私がそれだ。私が神だとご自身をお与えになるこの神に、あなたはどのようにお応えするか。このことが問われます。
ホーリネスの群の大切にしている四重の福音の二つめ、聖化の恵みは様々な角度からとらえることができるものですが、今日の御言葉から教えられました愛と救いと永遠の神さまにお応えしていくことであると言ってよろしいでありましょう。それはただひたすらに私も神を愛し、神の救いの恵みを感謝し、ただあなたのみに私をささげていきますと祈ること、決意すること、献身することです。

私のほかに 神は ない
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