モーセに率いられて出エジプトしたイスラエルの民は、約束の地、カナンの地に入ることを目指して40年の荒野の旅を歩んできました。
ヨルダン川の東岸に着き、川を渡ってカナンの地に入る前に、モーセが今一度、神さまの教え、律法を語り聞かせます。40年の荒野の旅で世代が交換していましたので、それは重要な語り聞かせになりました。それが申命記として聖書にあるわけです。
モーセがネボ山の山頂から遠くカナンの地を眺め、その生涯を終えますと、ヨシュアが指導者として立てられ、いよいよ約束の地、カナンの地に入っていくことになります。それがヨシュア記です。ヨシュアは40年前、12人の偵察隊の一員としてカナンの地を巡り歩き、大きなぶどうの房を二人がかりで運んできました。そこは乳と蜜の流れる素晴らしい土地とそのぶどうを示します。しかしイスラエルの民は、他の者がそこには強い民が住み、巨人がいると語る報告に意気消沈します。ヨシュアとカレブだけが「断然上っていくべきだ」と主張しましたが、聞き入れられず、結局40年の荒野の旅をしなければならなくなり、そのとき成人であった者はヨシュアとカレブを除いてすべて亡くなってします。それゆえにモーセによって申命記が語り聞かせられなければなりませんでした。
聖書地図3で確認できますが、ヨシュア記6章ではイスラエルの民はヨルダン川を渡り、はじめにエリコの町を占領します。七日間、角笛を吹き鳴らしながらエリコの周りを一巡りする。七日目には七周する。そうして鬨の声とともに城壁が崩れ落ちる。続いて7~8章でアイの町に進みます。そこはアブラハムが昔、「私が示す地に行きなさい」との神さまの召しに従って約束の地に来たとき、ベテルとアイの間に主のための祭壇を築いたというイスラエルの民にとって重要な地でした。しかしアカンの罪によって小さな町であるアカンに敗れてしまう。アカンの罪の処罰とイスラエルの民の悔い改めののち、アイの町を占領します。続いてシェケムに向かいます。そこもアブラハムがベテルとアイの間に祭壇を建てる前に、アブラハムが約束の地で最初に祭壇を建てた町です。そこにはゲリジム山とエバル山とがあります。申命記に教えられるようにゲリジム山には祝福を、エバル山には呪いを置き、律法に従う者には祝福、従わざる者には呪いを宣言します。こうして約束の地、カナンの地に
入り、アブラハムが辿った地を遡るようにして進んでいきました。そして再びヨルダン川沿いのギルガルに戻って、そこに宿営することになります。
さて、9章ではこのギルガルにろばに使い古したぶどう酒の革袋を乗せ、乾いてぼろぼろになっているパンを持ち、着古した上着を身にまとい、古びたサンダルを履いた一行がやってきます。それはギブオンに住む者たちでした。ギブオンはエリコとアイの近くにある町で、王の都のような大きな町で、その男たちは勇士でありました。しかしイスラエルの民がエリコとアイに勝利したことを聞いて、命を失うことを恐れました。そこで策を練って、そうした服装や持ち物を見せて、「自分たちは遠くの国に住む者です。これまでのイスラエルの民のことを聞きましたので、自分たちと契約を結んでください」と願い出ます。そのとき主に指示を求めず、ヨシュアは和平を結び、命を保障する契約を結びます。三日後にすべてが明らかになりました。ギブオンは遠くの国ではなく、すぐそこにある町であったのです。ギブオンの町は滅ぼし尽くされることから免れます。そして10章に入ると、それ聞いた五つの町の王が結集し、ギブオンに攻め上ってきます。そこでイスラエルと契約を結んだギブオンはヨシュアに使者を送ります。「五つの町の王たちが攻め上ってきます。私たちを救い、助けてください」。そこヨシュアは戦士や力ある勇士たちを率いて攻め上ります。ギルガルからギブオンに向かう道は、1000m以上登って行く道のりです。ギブオンと契約を結ばなければ必要がなかった防衛戦に向かわなければなりませんでした。それが今日の聖書箇所になります。
聖書には今日のところもそうですが、多くの戦いの場面があります。現在のイスラエルの状況と重ね合わせて、昔も今も変わらないのだなと思うかもしれません。どうして聖書には、こんな血なまぐさいことが語られているのだろうか。聖書は神の言葉であると言われるけれども、戦いの書ではないかと思われるかもしれません。たしかに戦いが多く、何とむごたらしいと思わざるえないことも語られています。しかしそれが人間の世界、現実なのです。学校で歴史の教科書を開いてみれば、そこに源氏と平家の壇ノ浦の戦いがあり、天下分け目の関ヶ原の戦いがありというように戦いの歴史がつづられます。そうした戦いを書き記さないで、さもそういったことがなかったかのような歴史をつづることはできません。聖書も同じです。戦いがなく、平和のみであったとは語ることができません。申命記には戦いのルールがあります。町を攻めようとするとき、まず降伏するようにと勧告する。降伏しないならば町を包囲し、滅ぼし尽くす。それは偶像の神々を滅ぼすことでもあるからです。そして認められるのは主の戦い、聖戦と呼ばれるものだけです。主の戦い、聖戦というのは、その名のとおり、主が戦われる。主が力を振るう。それは偶像を滅ぼし尽くすことであります。今日、聖書に主の戦いが語られている。聖戦があるということで、戦いが肯定されるかということは難しい課題です。教会では長く正義の戦いという思想がありました。悪に対して戦う。ピューリタン革命は王さまを断頭台に置くことさえする。しかし今日、戦いで世界が滅びることが現実味を帯びているとき、正義の戦いが肯定されるかは大きな課題です。聖書によって戦いを肯定することはできないでしょう。やはり日本憲法に謳われる平和主義を守ることは重大なことだと思います。そうした中で、聖書に語られる主の戦いというものをどのように学んだらよいのでしょうか。新約聖書には、Ⅰコリント10章に旧約聖書の出来事は私たちに対する警告であるとありますし、Ⅱテモテ3章には《聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です》とあります。警告であり、教え、戒め、正し、訓練するということです。そうであれば、主の戦いは私たちに何を警告し、教え、戒め、正し、訓練するのでしょうか。
それは信仰を働かせることです。この日、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、夜を徹してギルガルに攻め上ります。直線距離で30kmぐらい、1000mの高低差の山を登って行きます。夜を徹して登って行く。おそらく12節で《月よ、アヤロンの谷にとどまれ》とありますので、満月の夜だったのかもしれません。月明かりに照らされて、夜を徹してギブオンに上って行く。ヨシュアは主の言葉を語ります。8節《彼らを恐れてはならない。私が彼らをあなたの手に渡すからである》。私とは主なる神さまのことです。主は言われます。「すでにあなたの手に渡した」。これからそうなりますというのではなくて、「すでに私はあなたの手に渡した」と語られます。この主の言葉に信頼する。励まされる。恐れる思いを正される。訓練される。「主はすでに与えてくださった」と、そういう信仰を働かせる。
ヨシュアたちがギルガルの攻め上っていきますと、夜明けの頃だったようです。12節で《太陽よ、ギブオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にとどまれ》ということですから、東から太陽が昇り、西にはまだ月があるということなのでしょう。そういう時間帯に急襲された五つの町の王たちは混乱をしたのであります。ギブオンから西の方に逃れて、ベト・ホロンの下り坂を下って、さらに南下して行きます。10節《主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、イスラエルはギブオで彼らに大打撃を与え、さらにベト・ホロンの坂道を追い上げて、アゼカとマケダまで彼らを追撃した》。その距離40kmぐらいの逃避行です。何と語られているでしょうか。五人の王たちは早朝に急襲されて混乱した。イスラエルの民がこんなにも早く助けに来るとは考えていなかったのかもしれません。しかしそれは主がなしたことと語ります。《主がイスラエルの前で彼らを混乱に陥れたので》と語ります。さらに逃げて行く五人の王たちに天から大きな石、雹が降ってきたということです。4月頃、気候の影響で雹が降ることがあるそうです。大きな石のような雹が降ってきて、《雹で打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で打ち殺した者より多かった》ということです。そうした気候の影響、自然のなしたことでありますが、それをなされたのは主である。見えるとことは、五人の王たちは夜明け頃に急襲されて混乱している。しかしそれは《主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられた》のだと見る。大きな石のような雹が降ったと自然の力に助けられたというのではありません。《主は天から大きな石を降らせた》と見る。見るところは混乱と自然現象です。しかしそこに主がなしておられると見る。そのように正され、訓練される。主がそのようになしてくださったと信じる。そのよう信仰を働かせる。
ヨシュアは大胆に祈り求めます。12節《太陽よ、ギブオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にとどまれ》。アヤロンの谷は五人の王たちが逃げて行くところの谷です。太陽を沈ませないでください。月も白くなっているかもしれませんが沈ませないでください。大胆な祈りです。しかしそのようになったというのです。14節《この日のように、主が人の声を聞き入れられたことは、後にも先にもなかった》。太陽や月の動きをとどめた、ということは地球の動きをとどめたというわけです。科学的にはそんなことはありえないということになるでしょう。しかしこのとき勝利をおさめたイスラエルにとっては、主が祈りを聞いてくださったからと信じた。太陽や月を統べ治める主が、私たちの祈りを聞いてくだった。祈りが聞かれたのだという信仰を働かせる。これは私たちの勝利ではない。祈りを聞き給うて、天体を統べ治めておられるお方が一時とどめてくださった。まさにそれは14節《主がイスラエルのために戦われたからである》との確信の信仰へと導きます。
どのような信仰を働かせるか。《主がイスラエルのために戦われたからである》とあるように、私たちの信仰の歩み、日々の歩みにあって、「主が私のために戦われたからである」と信じる者でありたいと思います。主がすでになしてくださったとの信仰を、見えるところではなく、主がなしてくださっているのだとの信仰を、そして主が祈りをききたもうとの信仰を働かせていきたい。