ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録のために、ヨセフとマリアもベツレヘムに行きましたが、そこで月が満ちて、イエスと名付けることになっていた初めての男の子を産みました。
エルサレムに近いとはいえ、ベツレヘムは小さな町にすぎません。住民登録のために人々が押し寄せて、泊まる宿屋もないほどになっています。住民登録のために普段とはちがうにぎやかな人々の声が、あちこちから聞こえていたことでありましょう。
そんなベツレヘムの町の様子とは違って、郊外にひろがる野原にはいつもと変わらない光景がひろがっていました。8節《さて、その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた》のであります。そこにはにぎやかなベツレヘムの町のいつもとは違う光景とは対照的な、いつもと変わらない野宿する羊飼いたちがいます。ベツレヘムの郊外で飼育されている羊というのは、重要な役割を担うものであったと言われます。それはエルサレムにある神殿で、礼拝をささげるために用いられるささげもの、犠牲として用いられるものでした。その羊は傷のない、欠陥のないものであることが求められました。羊はそうした必要のために用いられていたものです。しかしその羊を飼う羊飼いはといえば、社会的には低くみられていたようで、さげすまれるところもあったようです。エルサレムの神殿で用いられる羊でありますから羊は大切にされましても、羊飼いは報われるものでありません。羊という動物を扱うことから、律法で定められた規定を守ることに難しさがありました。この日も夜通し羊の群れの番をしなければなりません。昔、イスラエルの王となったダビデは、ベツレヘムの郊外で羊を飼う者でありました。ダビデは言いました。「ライオンや熊が羊を奪う時、追いかけていって打ちかかり、その口から羊を取り戻し、向かってくればたてがみをつかみ、打ち殺してしまいます」。イエスさまが誕生する1000年前のベツレヘムですから、ライオンや熊が羊を奪っていうような環境もずいぶんと変わっているかとは思いますが、羊を守るために夜通し羊の群れの番をしなければならないことには変わりはありません。羊は重宝がられますが、羊飼いの報いは少なく、この日も町のにぎわいとはかけ離れた、いつもと変わらない、夜通し羊の群れの番が行われています。その羊飼いたちにイエスさまの誕生が告げられます。
9節《すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた》。羊飼いのところに天使が現れる。彼らが非常に恐れたのは、天使をはっきり見たというよりも、天使が現れて自分たちの周りを照らしたゆえ恐れたと語られています。しかしよく聖書を読んでみますと、ここには3つのことが順に起こったと告げています。一つめは「主の天使が羊飼いたちに現れた」、二つめは「主の栄光が羊飼いたちの周りを照らした」、三つめに「羊飼いたちが非常に恐れた」。主の天使はどこに現れたのでしょうか。先ほどの『素晴らしいホーリーナイト』では「夜空に輝く天の使いたちが、羊飼いたちに知らせた喜び」と賛美したように、夜空に天使が現われたと言ってもよろしいですが、聖書はもう少し距離感が近いです。
「現れた」というのは、元々の意味は「近くに立った」ということなので、夜空のかなたにというよりも、ずっと近くになります。東大で新約聖書を教えていた前田護郎先生は、ここを「主の使いが彼らのところにおり立ち」と訳しました。昔の文語訳聖書は「主の使その傍らに立ち」、英語聖書では「主の天使が彼らの前に立った」とあります。はるか遠くの夜空にではなくて、羊飼いたちのところにまでやって来て、そこに立っている。それゆえに恐れた。その主の栄光の光に照らされたゆえに恐れた。しかし見落としてはならないことがあります。羊飼いたちが恐れているのは、ただ感情的に恐れているのではありません。ここでは主の天使が現れたということですが、神に仕える天使でありますから、直接ではなくても、神さまに出会っているから恐れているのです。主の栄光が周りを照らしたとあります。天使の輝きではありません。主の栄光が照らしている。栄光というは、聖なる神さまのきよさそのもの、それが栄光の光です。ですから主の栄光に照らされるとき、それは聖なる神さまの臨在に包まれているのです。聖なる神さまの臨在に包まれるというのは、喜びの経験です。しかし同時に罪に汚れた人間には恐ろしいことです。羊飼いたちの姿が露わになる。むなしく夜通し羊の群れの番をする自分、救い主を待ち望む信仰を見失っている自分、神を賛美することを見失っている自分。主の天使が前に立ち、主の栄光に照らされるとき、そうした自分が露わになる。神に恐れおののく自分が露わとなる。それゆえ《恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである》
非常に恐れる羊飼いたちに、大きな喜びを告げる。「非常に」と「大きな」は聖書の言葉では同じ言葉です。非常に恐れる羊飼いたちの恐れを凌駕する、打ち消す、はるかにまさった大きな喜び、それが福音であります。主メシアの誕生、救い主の誕生、この福音をすべての恐れを打ち消す大きな、非常に大きな喜びであります。その喜びを天使たちが神を賛美します。《いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人になれ》。この福音の言葉を聞き、神を賛美する天使たちの賛美を聞き、羊飼いたちは《主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか》と言ってベツレヘムに行きます。そして飼い葉桶に眠るイエスさまにお会いします。主メシアにお会いする。そして羊飼いたちは、《この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせ》。そして20節《羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った》のであります。
羊飼いたちは「主が知らせてくださったその出来事」を見に行き、「天使から告げられたこと」を人々に知らせました。これはいずれも言葉となっています。主が知らせてくださった「言葉」を見てこよう、天使から告げられた「言葉」を知らせた。イエスさまを証しする福音の言葉です。福音の言葉を見に行こう。福音の言葉を知らせよう。それが羊飼いたちです。彼らは新しくされました。福音の言葉によって、神を賛美する者に変えられました。神を賛美する者たちによって福音の言葉が伝えられ、今聖書に書き記されて、私たちにまで届けられています。私たちは今日、福音の言葉を聞きました。羊飼いたちは神を崇め、賛美しながら帰って行きました。クリスマスは、神を賛美することがふさわしい。