ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、ギルガルという町に宿営しました。4章19節に《第一の月の十日に、民はヨルダン川から上がり、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した》とあります。聖書地図3を見ると、ギルガルとエリコの位置関係がわかります。ギルガルはエリコまで2~3㎞のところにあります。ヨルダン川の東側からエリコを眺めていた時には、少し離れたところにある感じがしたでしょうが、さすがにギルガルまで来ますと、すぐ目の前という感じであったかと思います。城壁に囲まれているエリコの町があります。
このギルガルでは、5章を読みますといくつかのことが行われました。一つめは割礼を行います。40年の荒野の旅で生まれた者たちは割礼を受けていなかったということで、ギルガルで割礼を行いました。
二つめは過越の祭りを祝います。第一の月の十日にヨルダン川を渡りましたが、その日は40年前、エジプトから救われる出エジプトのときに、イスラエルの家では小羊を用意することになりました。そして十四日の夕方に小羊を屠って、その血を家の門のところに塗ったわけです。その夜、エジプトの初子が打たれたとき、小羊の血が塗られているイスラエルの家は過ぎ越されました。そして出エジプトの救いとなったわけです。出エジプトの目的地は約束の地、カナンの地であります。ヨルダン川を渡って約束の地に入ってきました。そこで過越の祭りが祝われます。出エジプトの御業が過越からはじまって過越で終わる。そして新たに約束の地に入っていくという御業がなされようとするとき、過越の祭りが祝われます。
三つめは抜き身の剣をもった主の軍勢の長に出会います。ヨシュアが目を挙げると、抜き身の剣を手にした主の軍勢の長がこちらに向かって立っています。主の軍勢の長はヨシュアに命じます。《履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる所である》。かつてモーセがシナイ山で神さまから召し出されたときと同じことを経験します。
これらのことはいずれも一つのことをあらわしています。神さまに自分をささげる。献身する。私はあなたのものですとおささげする。おゆだねする。自分自身を聖別するということです。エリコの町を前にして、ヨシュアやイスラエルの民に求められていることは、自分を神さまにささげること、聖別することです。これからエリコの町に向かって行こうとするのでありますが、エリコの町を占領するということは、戦いに行くということが目的ではありません。エリコの町を神さまにおささげする。聖別するという信仰の行為であります。神さまへの信仰そのものが、エリコの町を占領するということなのです。そのことは後で取り上げたいと思います。
さて、1節には《エリコはイスラエルの人々を前にして城門を堅く閉ざし、誰も出入りする者がいなかった》とエリコの城門が堅く閉ざされていたとあります。すでに二人の斥候が偵察に行ったときから、その城門は閉じられていました。それから一週間ぐらい城門は閉じられたままでした。イスラエルの民は特別な装備があるわけではありませんから、堅く閉ざしたエリコの町は難攻不落の町であります。このエリコの町を前にして、神さまの約束の言葉が響きます。2節《主はヨシュアに言われた。「見ていなさい。私はエリコとその王、力ある勇士たちをあなたの手に渡す」》。これは神さまの実現した約束です。これからのことなので「あなたの手に渡す」というのですが、直訳すれば「あなたの手に渡した」と語っている。神さまの約束が語られる。「あなたの手に渡した」。「もうすでにあなたのものだ」。「だからこのようにしなさい」とお語りになります。神さまがお語りになるのは、「すでに得られたと信じなさい」(マルコ11章)という信仰を求めるのです。ですからヘブライの手紙11章の信仰者列伝の箇所では、このエリコの占領のことを《信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回ると、崩れ落ちました》と信仰による御業であると語ります。エリコの占領は、聖戦と呼ばれる戦いとなりまが、その本質は信仰の御業なのです。神さまの約束の言葉が響く。「あなたの手に渡した」。だから神さまを信じて従う。それがエリコの町を六日間は一周ずつ、七日目は七周回りなさいということであります。
二つめにエリコの占領が信仰の御業ということでありますが、それは祭司たちが登場することにあらわれています。4~5節《七人の祭司たちは、七本の雄羊の角笛を持ち、箱の前に進みなさい。七日目には町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。祭司たちが雄羊の角笛を吹き鳴らし、その音を聞いたとき、兵は皆、鬨の声を上げなさい。すると町の城壁は崩れ落ち、兵は各自の持ち場から突入することができる》。エリコの占領の中心は祭司たちの角笛です。さらには「箱の前を進みなさい」とありますが、これは契約の箱のことです。6節からのところを読んでいきますと、ヨシュアが神さまから命じられたことを祭司たちや兵たちに語っていきます。そこで祭司たちには角笛を吹くだけではなくて、契約の箱を担ぎ、その箱の前を角笛を吹き鳴らして進むようにと命じられて、そのようにします。11節には《彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた後、陣営に戻って夜を過ごした》と、エリコの町を回ったのは祭司たちが角笛を吹き鳴らしながら主の箱、契約の箱が回ったというのです。一日目、二日目というように、エリコの町の周りを一周します。そして七日目には七周します。その中心は角笛を吹き鳴らす祭司たちであり、契約の箱であります。
エリコの町は一回りしても、600mぐらいではないかということですから、大した距離を歩くのではないようです。それでも祭司たちが角笛を吹き、契約の箱が運ばれ、その前後にイスラエルの民の兵たちがいるわけです。民数記では人数が数えられましたが、それは兵役に就くことができる20歳以上の男性の人数です。60万人です。その全部ではないとしても、相当の数の兵たちが前後を歩いて回ることになります。七日目には七周回るわけですから、相当の時間がかかったことでありましょう。そして七日目の七周目、祭司たちが角笛を吹き鳴らすなかで、ヨシュアの声が響きます。16節《鬨の声を上げよ》。そのあとには訳されていませんが、「なぜなら」と語りながら、《主はあなたがたにこの町を与えられた》と宣言されます。これは2節にある神さまの約束の言葉、《あなたの手に渡す》と同じ言葉です。直訳では「あなたの手に渡した、または与えた」ということですから、同じ言葉であり、同じ意味の言葉です。神さまの約束が成就した。こういう宣言です。
祭司の吹き鳴らす角笛、持ち運ぶ契約の箱とは何でしょうか。契約の箱とは神さまの臨在です。角笛が吹き鳴らされるのは、その神さまの臨在を告げる。兵は黙ったまま回っています。しかし角笛が吹き鳴らされる。契約の箱が回っている。それは神さまの臨在を告げる。これはとても重大です。ヘブライ人への手紙によれば、信仰によって、エリコの町の周りを回るのであります。それはただ回っているのではなりません。神さまの臨在を告げながら回っている。それが角笛であり、契約の箱とともに回るということです。神さまの臨在を告げ知らせながら歩きまわる。エリコの物語は、たんなる占領物語ではありません。古代イスラエルのたんなる戦記物語ではありません。神さまの臨在を告げ知らせる信仰の物語です。聖書はエリコの物語を読み、耳を傾ける私たちにチャレンジをします。あなたは神さまの臨在を告げ知らせているか。祭司が吹き鳴らす角笛のように、持ち運ばれる契約の箱のように、神さまの臨在を告げ知らせているか。神さまが私と共におられると告げ知らせているか。神さまの臨在、それは神さまの救い、驚くばかりの恵みを生きているか。感謝しているか。賛美しているか。信仰によってエリコの町を回るように歩いているか。そんなチャレンジを受けています。
最後にはじめにお話ししたことに戻りたいと思います。エリコの町を占領するということは、戦いに行くということが目的ではありません。エリコの町を神さまにおささげする。聖別するという信仰の行為であります。5章でイスラエルの民が経験したことは、エリコの占領に先立って、神さまに自分をささげる。献身する。私はあなたのものですとおささげする。おゆだねする。自分自身を聖別するということでありました。そのあらわれがエリコの占領であります。神さまへの献身、神さまにささげる。これがエリコの物語の神さまの臨在を告げ知らせるとともにもう一つの重大なことです。
神さまはエリコの町のどのようにしなさいと命じておられるでしょうか。17節《この町とその中にあるすべてのものを滅ぼし尽くし、主への献げ物とせよ》、18節《くれぐれも言っておくが、滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出してはならない》、21節《彼らは町の中にあるすべてのものを滅ぼし尽くした》。「滅ぼし尽くす」。鬨の声があがり、エリコの城壁が崩れると、滅ぼし尽くすべきものが主にささげられる。これだけ読みますと、なんと凄いことが命じられ、行われているのだろうか思います。目をそむけたくなる光景を思い浮かべます。なぜ神さまはこのようなこと命じられるのかと思います。これは聖書が聖戦、神の戦いと呼ばれることが徹底的に神さまの主権にあることをあらわします。間違ってはいけないのは、今日、聖書を根拠として聖戦なるものはありません。なぜ滅ぼし尽くさなければならないのかは、私たちにはわからない。そのままでもいいではないかと思う。しかし神さまの命じられることは、滅ぼし尽くせ。それはあなたたちのものではない。自分のものにしてはならない。私のものだから、私にささげなさい。銀や金、青銅や鉄の器はあなたたちのものではない。主の聖なる献げ物、神さまのものである。
私たちの信仰の根底にあるものは、自分自身を神さまにささげているかということです。生活する中で多くのものを手にします。そうしたものがいらないとか、否定するということではありません。そうではなくて、自分を神さまにささげているか。ゆだねているか。自分を滅ぼし尽くしているか。
エリコの物語を読み、耳を傾ける私たちはどうでありましょうか。神さまの臨在によってエリコの城壁が崩されるごとく、自分の城壁が崩されているか。そして自分の城壁の中にある滅ぼし尽すべきもの、それが自分の誇り、そこから派生する高慢とか、もっと深く根深いところは、罪の源泉が滅ぼし尽くされているか。そんなチャレンジがされています。

