ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、部族ごとに嗣業の地、相続地を得ることになります。それはその地方を支配したというよりも、移り住んでいったということです。イスラエルの民は12部族でありましたので、12の地域に移り住んでいきました。聖書ではこの12部族というのがキーワードの一つであります。創世記12章でアブラハムが神さまから選ばれるところから12部族がはじまります。
創世記1~11章には、神さまの天地創造からはじまり、神のかたちに創造された人間、神さまとの特別な交わりに生きる者として創造された人間、神さまを礼拝し、賛美する者として創造された人間が、神のごとくになろうとして神さまに背を向け、神さまから離れ、逃れ、隠れる。そういった罪に落ちてしまい、死ななければならない者となります。罪が支払う報酬である死がもたらされる。罪と死の呪いに覆われる。それゆえに、聖書は人間の最大の課題は罪と死であると語ります。そしてその救いは罪の赦しであり、死から勝利する復活、永遠の命であると語るのであります。罪と死から救い、そのために神さまはアブラハムを選ばれます。祝福の基とします。アブラハムによって、すべての民に救いが、祝福がもたらされるようにということです。
アブラハムからはじまって、イサク、ヤコブと祝福が継承されていきます。創世記の終わりに、ヤコブの息子が12人であったとあります。具体的な12部族というのはヤコブの息子たちになります。ヨセフがエジプトに売られてしまいますが、主がともにいて導いてくださり、飢饉のときにエジプトのリーダーとなる。そしてヤコブと息子たちの家族70名がエジプトに移り住むことになります。出エジプトのとき、そのリーダーとして選ばれたのはモーセであります。モーセは兄のアロンとともに、エジプトの王ファラオと交渉し、最後には過越の小羊によって出エジプトの御業がなされていきます。モーセとアロンはイスラエルの12部族のうちのレビ族でありました。レビ記にはレビ族であるアロンとその息子たちが祭司に任職されたことが語られます。その後、レビ族は祭司の働き、神殿での働き人となっていきます。申命記10章にはそのために《レビ人には、兄弟たちのような割り当て地や相続地がない。あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからである》とあります。レビ族には約束の地で移り住んでいく嗣業の地、相続地がありませんでした。そのかわり、それぞれの部族が移り住んでいく地域の町をレビ族の町として与えなさいというわけです。そうすると、11部族となってしまいますので、ヨセフの息子であるマナセとエフライムをもって12部族にするわけです。こうしてヨルダン川を渡って行き、部族ごとに移り住んでいくことになります。
聖書地図3カナンの分割には12部族が移り住んだ地域が赤い文字で記されています。ヨルダン川の東には、ルベン、ガド、マナセ半部族があります。西にはシメオン、ユダ、ベニヤミン、ダン、エフライム、マナセ半部族、イッサカル、ゼブルン、ナフタリ、アシェル族が移り住んでいきます。19章終わりに《イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた》とありますから、くじ引きで決められたというのです。それは約束の地は、そして12部族がそれぞれ移り住む地は、神さまが与えてくださった嗣業の地、相続地であるということであります。このように12部族に土地が与えられます。今日の聖書箇所は、そうした土地の配分を終えて、ヨルダン川の東に三つ、西に三つの町を選びます。それが逃れの町であります。7節に逃れの町のリストがあります。ヨルダン川の西側には北の方からケデシュ、シェケム、南のヘブロン、東側はルベンのベツェル、ベトペトルの少し東側、ラモト・ギルアド、マナセのゴラン、アシュタロトの少し西側になります。
この逃れの町については、1節に《主はヨシュアに告げられた。「イスラエルの人々に告げなさい。私がモーセを通してあなたがたに告げておいた逃れの町を定めなさい」》とあるように、モーセを通してすでに告げられていたことでした。シナイ山の麓にいたとき、出エジプト記21章13節にすでにそれが語られていました。40年の荒野の旅が終わろうとしているとき、ヨルダン川の東側までやってきたとき、民数記35章では具体的な町の名前はありませんが、6つの町を逃れの町としなさいと主がモーセには再び語られています。そしてヨルダン川を渡る直前、もう一度モーセはイスラエルの民に十戒をはじめとした神さまの戒め、教えを伝えます。それが申命記です。申命記4章ではヨルダン川の東側の三つの町の名前が挙げられています。19章にはヨルダン川を渡ったら、そこにも3つの町を逃れの町とするようにあります。そしてヨルダン川を渡って5年ほどが経過し、土地を配分し、移り住んでいくことになって、出エジプト以来、長い間語り伝えられてきたように、逃れの町を定めたのであります。現代の私たちの社会とは違うところがありますから、理解しにくいところがあるかと思います。そうした中で、私たちの信仰に引き合わせるようにして、いくつかの点を学びたいと思います。
一つめは逃れの町の聖別であります。7節《そこで彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライムの山地ではシェケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した》、8節の終わりにも《バシャンのゴランを聖別した》とあります。この6つの逃れの町には誰が住んでいたのかということです。《その町の長老たち》と言うぐらいしか住民が出て来ませんが、実は次の21章に土地が配分されないレビ人が、12部族の中から住む町として48の町が与えられるということが語られています。よく読んでみますと、6つの逃れの町はその48の町に含まれているレビ人が住むようにと与えられている町です。レビ人が住んでいる町です。祭司が住んでいる町です。レビ人、祭司は他の12部族のように、くじで配分された地域の中でどこに住もうかと自由に決められるわけではありません。48の町に住むようにと定められています。自由に選択できません。そうしたレビ人が住む町のなかに6つの逃れの町があった。もちろんその町には長老たちとあるように、一般のイスラエルの民も住んでいます。レビ人だけが住んでいるわけではありません。しかし逃れの町にはレビ人が住んでいる。祭司が住んでいる。神に仕える者が、礼拝に奉仕する者が住んでいる。彼ら自身が本来的にきよい、聖なる者というわけではありませんが、聖なる神に仕える者、そうであれば、レビ人が住む逃れの町には聖なる神の臨在があると言えます。もちろん神さまはどこにでも臨在されるお方でありますので、特定のところに制限することなどできません。逃れの町だけに神さまが臨在されるということではありません。しかし逃れの町は聖別されたのであります。「きよい」、「聖なるものとする」。それが聖別です。レビ人が住み、神さまが臨在されるところだからです。
二つめは逃れの町の開放です。逃れの町はすべての者に開かれている町だからです。9節《以上が、
すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である》。イスラエルの12部族だけが逃れる町ではありません。「彼らのもとに寄留している者」、外国人もまた、そこに逃れることができる。ヨシュア35章や申命記19章で逃れの町を定めるようにと語られているところでは、「誰でもそこに逃げられるようにしなさい」とあります。誰でも入れる。ここでは故意の殺人は逃れの町には入れませんが、誤ってそうなってしまった場合、誰でも、イスラエルの民だけというのではなく、誰でも逃れることができる。逃れてくるかどうかです。逃れの町に入りたいというならば、制限はない。誰でも入ってきなさい。そのように開かれている。開放されています。現在の表現であれば、ナショナリズムではなくて、インターナショナル、グローバル、インクルーシブ、ダイバーシティというようなことでしょうか。逃れの町は誰でも開かれています。
三つめは逃れの町の救いです。6節《裁きのために会衆の前に立つときまで、もしくは、現職にある大祭司が死ぬまで、その者はその町にとどまらなければならない。その後、人を殺した者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる》。ここでは正当な裁判で無罪となるか、大祭司が死ぬと、逃れの町から自分の町と家に帰ることができる。裁判で無罪が認められるということが理解できます。しかし大祭司が死ぬと解放されるというのはどういうことか理解が難しいところです。逃れの町を含めた48の町にレビ人たち、祭司たちが住んでいますが、大祭司はその中で一人だけです。その大祭司が死ぬとどうして解放されるのか。大祭司はレビ記16章にあるように、年一度の大贖罪日に、イスラエルの民全体の罪の赦しのために犠牲をささげる者です。民に代わって犠牲をささげ、罪の赦しを与える。これが大祭司です。大贖罪日には大祭司が犠牲をささげるわけですが、大祭司が死ぬというには、自らを犠牲としてささげたということで、罪の赦しがある、救いがあると考えられたのでありましょう。大祭司の死には贖罪的な、罪の赦し、救いをもたす力があるということでしょう。特別恩赦のようなものでありましょう。逃れの町には救いがある。大祭司の死には救いがあると考えられたということです。
私たちはこうした逃れの町について、その聖別、開放、救いを学びときに、私たちには逃れの町に入れられていることを感謝したいと思います。私たちの逃れの町は教会です。現代の逃れの町は教会です。教会は神が建てられた神の宮です。神さまが聖なる臨在をされると神の宮です。そこには神の民が招かれます。神さまは誰で来なさい。誰でも入りなさいと招かれています。あなたも神の民にしようと誰にでも招かれます。ヘブライの手紙にはイエス・キリストは真の大祭司なるお方で、ただ一度ご自身を十字架にささげて死なれ、私たちの罪を完全に贖い取ってくださいました。赦してくださいました。私たちはイエスさまを信じて、罪赦されて、救われ、新しく生まれかわり、神の子としていただきました。教会という逃れの町がある。そこに入らなければならない。そうでなければ救いはない。この世界には、教会の外には救いはない。神さまは仰せになります。2節《私がモーセを通してあなたがたに告げておいた逃れの町を定めなさい》。逃れの町を定めなさい。教会はあってもなくていいのではありません。現代の逃れの町でなくてはなりません。そこには神が臨在し、誰もが招かれ、大祭司なる御子イエス・キリストの十字架の救いがあります。