繫栄の回復

  • 1月5日
  • 聖書箇所:詩編126:1-6
  • 説教:大友英樹牧師

今年の教会聖句は4節の《私たちの繁栄を再びもたらしてください》であります。すでに元旦礼拝で取り上げたことですが、新年礼拝でも今一度、この御言葉に心をとめたいと思います。この詩編は、私たちはかつて繁栄を回復したことがあったと歌いはじめます。

1節《主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき、私たちは夢を見ている人のようになった》。BC587年にバビロン帝国の支配がひろがり、エルサレムが占領され、神殿は破壊され、ユダ王国が滅び、多くの民がバビロンに捕囚となります。バビロン捕囚の時代を迎えます。やがてペルシア王キュロスによりバビロンが滅ぼされ、捕囚から解放されて、エルサレムに帰ってきます。人々の口には笑いが、舌には喜びの歌が満ちています。エルサレムの神殿再建のために基礎工事が終わると、歓声が響き渡る。昔の神殿を知っている者は涙を流して喜ぶ。そんなシオンの繁栄がありました。そのことを思い起こし、《私たちの繁栄を再びもたらしてください》と祈り求めるのであります。元旦礼拝では、エズラ記に語られている神殿再建のことを取り上げました。基礎工事ができましたが、そのあと妨害する者が現れたこともあって工事が中止されてしまい、そして自分たちの生活にあくせくする。そのようなときが15年から20年続きます。そのようなとき、ハガイと預言者が立てられ、「神殿を再建せよ」というメッセージをうけて立ち上がり、ようやく神殿が再建されることになるわけです。預言者ハガイによって励まされた人々の姿は、《私たちの繫栄を再びもたらしてください》と祈る姿に重なります。《再びもたらしてください》。これは「立ち帰る」という意味の言葉です。この祈りには神に立ち帰ること者の祈りです。神第一に、信仰第一に立ち帰る信仰者の祈りです。

イスラエルの民にとって、繁栄というのはバビロンからの解放、そしてエルサレム神殿の再建というように、エルサレムが再び繫栄すること、人々がエルサレムの神殿に続々とやって来ること、都に上る歌とあるように、特に祭りの時には多くの人々が祭りのために、神を礼拝するために、エルサレムに賛美しつつやって来る。そういう繁栄であります。それは商売繁盛の繁栄ではありません。豊かになるという繁栄ではありません。それは神を賛美する者たちが、喜び躍りながら、シオンに来る。エルサレムに来る。主の神殿に集ってくる。信仰の繁栄です。ずっとそういう繁栄が続いて行けばよろしいわけですが、残念ながら、聖書はそういう繁栄がいつまでも続いていかない現実を教えてくれます。70年間、バビロンの地に捕囚となっていて、そこから解放されたならば、どんなに喜ばしいことかと思います。そして破壊されていた神殿を再建することが、どんなに感謝にあふれることであろうかと思います。口には笑いが、舌には喜びの歌があふれている。しかし聖書はそういうことは長くは続かなかった。自分たちの生活にあくせくして、神殿再建など忘れたかのようなことになってしまうのです。新約の時代、教会の時代にあってもそうです。ずっと繁栄の時であるかといえば、そうではない。明治維新の頃、日本にキリスト教を伝えてくれた宣教師たちは、多くはアメリカの教会から派遣されていました。なぜ海外にまで宣教師が遣わされたのでしょうか。イエスさまが《全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい》と命じられているからでしょうか。確かにイエスさまの宣教命令は重大です。しかしイエスさまの命令だけで宣教師が遣わされたのでしょうか。アメリカの教会でリバイバル、信仰復興があったからです。信仰が繁栄したのであります。第2回目のアメリカのリバイバルが宣教師たちを押し出していきました。アメリカの教会は、しばしばリバイバル、信仰の繁栄が起こりました1880年代にも、第二次世界大戦後にもリバイバルが起こり、教会は人々で溢れました。そういうリバイバル、信仰の繁栄というのは、残念ながらずっとは続かないのですが、しばしば起こる。そしてそれによって教会は息を吹き返す。そういう教会の歴史があります。

過去を思い起こす。聖書はそのことを私たち教えてくれます。昔は良かったと懐かしむためではありません。いつの時代もそういうところがありますが、今が厳しい時代、困難に向き合っているとき、危機の時代だと思う。そのとき神さまはかつてこのような大いなる業を行ってくださったことを思い起こすこと私たちに力を与えます。教会に力を与えます。《私たちに繁栄を再びもたらしてください》と祈り求めさせる力になります。

過去の繁栄、教会の信仰の繁栄、それは思い起こす必要があります。教会の記念誌が編集さることがありますが、それは教会の記録を残すということもありますが、教会の信仰の繁栄を思い起こさせる記録であります。その教会の信仰の繁栄を思い起こし、《主は私たちに大きな業を成し遂げてくださった》ことを思い起こし、そして今一度、《私たちの繁栄を再びもたらしてください》と祈り求める。リバイバルを祈り求める。信仰の繁栄を祈り求める。神さまは赤羽教会にも大きな業をなしてくださいました。
来年2026年は赤羽宣教100年の時を迎えます。赤羽教会の前身は池袋ウェスレアン教会から派遣された小島季夫牧師による開拓伝道であります。26歳ぐらいの先生であったようですが、深い祈りと信仰の人で、礼拝には120名も集まったと言うことです。この時代に小渕さんのご両親や池田さんなどが救われて、この後の教会の中心メンバーとなっていくことになります。先生は若くして亡くなったので、3年ほどして教会はホーリネス教会に加入することになります。戦後、様々な事情で教会堂を失い、信徒たちの群れが集まって集会をまもり、祈りをささげていました。戦後は戦災で会堂を失った教会にアメリカの教会からの献金がありました。赤羽は戦災の教会ではありませんでしたので、その資格はありませんでした。そんな中で高山先生が牧する新宿の牛込矢来通り教会と合併することになります。牛込矢来通り教会は戦災で会堂を失いましたが、信徒がばらばらになってしまっていました。赤羽には信徒がいる。しかし会堂がない。牛込は戦災教会で信徒がいない。そして同じホーリネス教会であるということで、二つが合併する形で、アメリカの教会から献金を受け、この地に会堂が与えられたのが74年前になります。そこから救われる者を加えてくださって、2000年頃には礼拝に80名、90名と集められる教会となっていきました。そしてこの会堂が与えられたのであります。
《主は私たちに大きな業を成し遂げてくださった》のであります。しかしその頃から、日本の教会ははじめて右肩下がりを経験するようになりました。そうした中で、かつての教会での大きな業を教えられる私たちにとって、そうしたことを経験してきた者にとってはなおさらのこと、この教会聖句が祈りとなるのではないでしょうか。《私たちの繫栄を再びもたらしてください》。信仰のリバイバルを、信仰の繁栄を私たちに、教会に再びもたらしてください。

聖書はこの祈りの前に、《主よ、ネゲブに川が流れるように》とあります。ネゲブの川は南の地方にある水が流れていない川です。雨が降ったときだけ川になる。いつでも水が流れているわけではありません。いったん雨が降ると、そこは豊かな川が流れる。そうすると、そこに水を求めて人々がやって来る。動物たちがやって来る。緑が生え出てくる。そこから水を畑にまいて食物が育つ。そのようなネゲブの川に水が流れると命がみなぎるごとく、教会のなかに、私たちの中に、神の命がみなぎり、注がれるところに、信仰の繁栄がはじまります。それを待ち望みながら《私たちの繁栄を再びもたらしてください》祈ってまいりましょう。

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