2024年の教会聖句であるイザヤ51:11《主に贖い出された者たちが帰って来る》を礼拝のたびごとに唱和してきました。今年の新年礼拝でこの御言葉を取り上げて、霊的な意味で、バビロンに捕囚となっている兄弟姉妹たち、イエスさまの十字架によって贖い出された兄弟姉妹たちが帰って来る。この年、この御言葉を握りながら、リバイバルの年となるように祈っていきたいと1年を歩み始めたことであります。もちろん、このような祈りは1年だけのものではありませんので、これからも祈り求めていくものであります。《主に贖い出された者たちが帰って来る》。この御言葉が実現していくことを祈り続けていきたいと思います。その意味で、年末感謝礼拝におきまして、今一度、この御言葉に心を寄せたいと思うのです。
イザヤがこのメッセージを語るのは、イザヤ自身の時代ではありませんでした。イザヤの時代からすれば、150年ほど先の時代になります。そのときイスラエルの民はバビロンに滅ぼされ、国破れて、多くの者たちがバビロンの地へ捕囚となっていたときです。最終的に滅ぼされたのがBC587年のことです。バビロンから解放されるときが来る。つまり《主に贖い出された者たちが帰って来る》。このように将来を見据えて語っています。捕囚となった当時の預言者にエレミヤがいました。エレミヤは捕囚となった民に、70年の時が満ちれば、バビロンから解放される。だからは畑を耕し、家庭をきづき、その町の平安を祈りなさいと手紙を送ります。70年が満ちたなら解放される。イザヤにしても、エレミヤにしても、そのように捕囚となった民にメッセージを語るわけです。エレミヤは捕囚となっていく人々を目の当たりにしながら語るメッセージでしたので、リアリティ、現実味があったかと思います。
しかしそれと同時に、その中にある人々にとってみれば、70年ですかというような思いを起こさせるようなものであったかもしれません。そんなときに、150年も前にイザヤが語っていたメッセージに人々の目が留まったのではないかと思います。エレミヤは70年が満ちるならばと語っているけれども、150年も前のイザヤもバビロンに捕囚となるイスラエルの民に語っていたのではないか。エレミヤのメッセージと相まって、イザヤを通して告げる神さまのメッセージ、《主に贖い出された者たちが帰って来る》というのは、どんなに力強く、慰め励ますメッセージであったかと思います。ここにはかつての出エジプトの出来事が思い起こされています。《海を、大いなる深淵の水を干上がらせ、海の底を道とし、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか》。紅海を渡り、救い出された、贖われたイスラエルの民が思い起こされます。「神さま、あなたがそのようにしてくださったのではありませんか」。そのあなたが、バビロンの捕囚から解放してくださる。《主に贖い出された者たちが帰って来る》。歓声を上げ、喜びながら帰って来る。第二の出エジプトの御業がなされる。イザヤのメッセージはそのように語ります。
第一の出エジプトのときには、過越の小羊が屠られて、その血が門に塗られて贖われるという経験をしました。過越の小羊によって贖われた。それではこのバビロン捕囚からの解放、贖いはどのようなものでしょうか。神さまはどのようにして、その贖いの御業をなされるのでしょうか。イザヤ書は40章からのところが150年先を見据えたイザヤのメッセージとなります。神さまはバビロンの捕囚となっているイスラエルの民のために、その贖いのために、どのようになされるのでしょうか。イザヤを通して語られるのは、43章に《私があなたを贖った》とあるように、神さまの贖い、解放、救いであります。しかもそれはすでに成し遂げられたと言われます。神さまの内では、すでに成し遂げられています。《私があなたを贖った》。その神さまの贖いの御業、《主に贖い出された者たちが帰って来る》と言われる御業は、どのようになされるのでしょうか。
まず第1は一人の人を用いられます。45章にキュロスという王が登場します。キュロスはバビロンを滅ぼすことになるペルシアの王であります。《主は油注がれた人キュロスについてこう言われる。私は彼の右手を取り、彼の前に諸国民を従わせ、王たちを丸腰にする。彼の前に扉は開かれ、どの門も閉ざされることはない》。キュロスは油注がれた人と呼ばれます。王として立てられているということですが、神さまに選ばれているということです。キュロスはペルシアの王でありますが、主なる神がお選びになる。お用いになる。だから油注がれた人というのです。キュロスを用いて、神さまはイスラエルの民を贖われます。歴代誌下36章の終わりとエズラ記1章の初めは同じことが語られています。そこにはバビロンを滅ぼしたペルシア王キュロスが布告を発したとあります。《ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、神がその人と共におられるように。その者は誰であれ、ユダのエルサレムに上り、イスラエルの神、主の神殿を建てなさい。その方はエルサレムにある神である》(エズラ1:2~3)。キュロスという異邦人の王を用いられます。キュロスの布告によって、神さまはバビロンの捕囚の民を贖われ、解放される。そして多くの民がバビロンからエルサレムに帰ってくる。《主に贖われた神が帰って来る》ことになります。神さまはキュロスを用いられます。
第二は一人のメシアを用いられます。まことの意味での油注がれた者、メシアであります。9節からはじまって三度にわたって《目覚めよ》と語られるイザヤの一連のメッセージは52章まで続きます(51:9・17・52:1)。そして53章にはまことの油注がれた者、メシアによる贖いの御業が語られます。苦難の僕と呼ばれるイザヤ書の頂点であるばかりか、旧約聖書の頂点であるメッセージです。《彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれ、苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安を与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された》(53:4~5)。私たちは新約聖書の福音書が伝えるイエスさまの十字架の場面がここにあることを思い起こさざるをえません。いったいこの苦難の僕は誰なのだろうか。イザヤのメッセージを聞いた人々には定かではありません。バビロンの捕囚のなかにある人々にも、自分たちがこの苦難の僕によって贖われたとは思わなかったでありましょう。バビロンから解放され、主に贖い出された者たちが帰って来ることについて、キュロスのような地上的な、歴史的な人物が用いられたことですが、神さまの深いご意志のなかには、一人のメシアが、苦難の僕が用意されている。まことの贖いの御業が、この苦難の僕である一人のメシアによって成し遂げられる。この苦難のメシアによって、主が贖い出された者たちが帰って来る。これがまことの贖いであります。そのために一人のメシアが用いられます。イザヤのメッセージはさらにはるかに先を見つめ、苦難の僕を十字架に死なれ、復活された御子イエスさまにまで至ります。神さまは苦難のメシアを用いられます。
このバビロンに捕囚となっていた者は、キュロスによって贖い出されて帰って来ました。そこはエルサレムであります。エルサレムの神殿が再建されなければなりません。歓声を上げながらシオンに入るのです。それでは苦難の僕によって主に贖い出された者たちはどこに帰って来るのでありましょうか。歓声を上げて帰って来るシオンとはどこでしょうか。神さまは主に贖い出された者たちが帰って来るところを備えてくださっています。苦難の僕、メシアによる贖いは、十字架と復活による贖いです。罪の赦しと永遠の命の贖いです。エルサレムの神殿に代わって、神の神殿として教会を備えてくださいました。しかもそれは神の民の教会であります。キリストの体と呼ばれる教会です。主に贖われた者たちがキリストの体に組み合わされます。そして聖霊に満ちる、永遠の命に満ちる教会です。主に贖われた者たちが帰って来る。それは「立ち帰る」ということです。方向転換するころです。聖書は繰り返し、「立ち帰れ」と語ります。主に贖われた者たちは立ち帰れ。帰るべきところに立ち帰れ。教会こそ主に贖われた者たちが帰って来るところです。