出エジプトしたイスラエルの民は、40年の荒野の旅をしなければなりませんでした。その原因は約束の地、カナンの地に送られた12人の偵察隊の報告からはじまりました。民数記13~14章になります。その12人の偵察隊はイスラエルの12部族から1名ずつでありました。ヨシュアはエフライム族から選ばれ、カレブはユダ族から選ばれていました。
カンナの地は乳と蜜の流れる地で、二人がかりで一房のぶどうの実がなっている枝を持ち帰り、ざくろやいちじくもある豊かな実りがありました。しかし乳と蜜の流れる地ではありますが、これから入っていくカナンの地の入口ともいえるヘブロンという町にはアナク人が住んでいる、巨人が住んでいる。強い勇士がいる。そうした報告にイスラエルの民は意気阻喪して、泣き崩れ、不満をもち、エジプトに帰ろうとまで言い出します。
ヨシュアとカレブは「断然、上っていくべきだ」と励ましますが、ほかの10名の偵察隊の声の方が人々をとらえてしまいます。そのようなことで、40日間のカナンの地の偵察に従って、40年の荒野の旅をすることになります。そのとき20歳以上の者たちは、ヨシュアとカレブを除いて荒野の旅のなかで死んでしまいます。40年の荒野の旅を終えて。新しい世代がヨルダン川を渡り、12部族がそれぞれの地域に移り住むようになります。それがヨシュア記13章からのところになります。
13章はヨルダン川の東側に住むことになるルベン、ガド、マナセの半部族について、14章からがヨルダン川の西側に住むことになる残りの10部族についてであります。そのはじめにユダ族が移り住む地域が挙げられています。ユダ族が最初に挙げられ、しかも詳しく語られているのには理由があります。マタイ福音書の冒頭を開くとわかります。そこにはアブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図があります。アブラハムからはじまり、イサク、ヤコブと続き、ヤコブの12人の息子のなかでユダに、ユダからペレツというようになって、エッサイの子のダビデにつながります。偉大なダビデ王であります。そこからダビデ、ソロモンと続いていきまして、イエス・キリストに至る。ですからユダ族は重要で、それゆえに初めに、そして詳細にカナンの地に移り住んだことが語られます。カレブは12人の偵察隊のところで挙げたように、このユダ族の一員でありました。ユダ族の土地取得が挙げられる前に、「断然、上っていくべきだ」と信仰の言葉を語り告げたカレブが登場して、ヘブロンの町を譲り受ける。それが今日の聖書箇所になります。
6節《ギルガルにいるヨシュアのもとにユダの一族が進み出た。ケナズ人であるエフネの子カレブがヨシュアに言った。「私とあなたのことついて、主がカデシュ・バルネアで神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです》。このようにカレブはヨシュアの前で、一緒にカンナの地を偵察に行ったときのことを語りはじめます。このときから数えますと45年前、40歳のとき、「断然、上っていくべきだ」と信仰の言葉を語ったときです。8節《私と一緒に上って行った兄弟たちは民の心を挫きましたが、私はわが神、主に従い通しました》。民数記14:24にはそのとき主なる神さまがモーセを通して語り給うたことが語られています。《私の僕カレブの心だけは別で、私に従い通したので、私は彼が行って来たあの地に、彼を連れて行く》。そして40年の荒野の旅を終えて。ヨルダン川の東側まできたとき、モーセがイスラエルの民にもう一度神さまのみ教えを語り伝えました。その申命記1:36に同じように語られます。《彼(カレブ)が足を踏み入れた地を、私は彼とその息子たちに与える。彼は主に従い通したからである》。カレブには神さまからの約束がありました。信仰のゆえの恵みがありました。カレブが属するユダ族が土地を取得するということになりますが、カレブにはへブロンの町を与えられるという特別な恵みが与えられました。そのことを今、果たしてください。許してください。そういうことでカレブはヨシュアの前に進み出ます。
ここに私たちはカレブの信仰を教えられるのであります。繰り返し語られるのは、「主に従い通す」ということです。カレブの信仰は従い通す信仰、従順な信仰、忠実な信仰であります。すでにさきほどお読みした民数記14:24のところで、カレブへの神さまの評価は「私に従い通した」ということでした。今日の聖書箇所でも、「従い通した」ということが、8節でカレブ自身の言葉として、9節でモーセを通して主なる神さまの言葉として、そして14節のまとめの言葉として「彼がイスラエルの神、主に従い通したからである」とあります。従う信仰、従い続ける信仰です。40年前のカナンの地を偵察したときも、「断然、上っていくべきだ」と信仰の言葉を語り、主に従う信仰の姿を明らかにしました。他の10人がだめだと言っても、「今こそ、主に従っていこう。断然、上っていくべきだ」と語る。そのときだけでなく、40年の荒野の旅の中で、具体的にはカレブは登場しませんが、しかし指導者のモーセがいて、従者のヨシュアがいて、彼らを助けるようにして従い続けてきたのです。人々は次々に荒野の旅のなかで地上の生涯を終えていきます。ヨシュアとカレブだけが約束の地に入ることができるとの約束を握りながら、主に従い続けてきました。カレブは語ります。10節《御覧ください。主は約束してくださったとおり、私を生かしてくださいました。主がこのことをモーセに約束されたトキから45年がたち、その間、イスラエルは荒れ野を歩みました。今日、私は85歳になりました》。45年間、主に従い続けています。信仰には卒業はありません。ある一時「主に従い通した」ということもたいへん重要なことです。このときこそ信仰の踏ん張りどころというときがあります。エステルがハマンの策略でユダヤの民が絶滅の危機に陥ったとき、モルデカイから「このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」との言葉に、信仰の一歩を踏み出していきます。エステルにとって、このときこそ踏ん張りどころ、主に従わなければということになりましょう。このような時にこそ主に従い通すということは重要でありますが、カレブの場合は45年間、主に従い通す、従い続ける、そしてこれからも従い通すでありましょう。
そこから第2に挙げることができるカレブの信仰は、今を生きる信仰、生きている信仰です。かつて生きていた信仰ではなくて、今、生きている信仰です。「主に従い通した」ということが繰り返されているだけではなくて、今とか、今日ということも三度繰り返されていることがわかります。10節冒頭に《御覧ください》とありますが、その前に訳されていない「今」という意味の言葉があります。「今、御覧ください」「今日、御覧ください」ということです。そして10節の終わりに《今日、私は85歳になりました》、12節に《ですから今、主があの日に約束してくださった山地をください》。さらに言葉が違うのですが、11節にも《今日もなお》とあります。これも含めれば四度にわたって、「今」とか「今日」と語られます。信仰は今を生きるのです。今、生きている。今、信じている。今、従っ
ている。これが重大です。カレブは私は85歳になりました。健康は健やかです。45年前と変わりませんと語りますが、やはりそれなりに年齢を重ねていることでしょう。しかしⅡコリント4章に《私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます》とあるように、魂が恵まれている。内なるものが生き生きしているという信仰の姿であるということでありましょう。カレブには意欲があります。情熱があります。なにゆえ、そのようにカレブの信仰は、今を生きる信仰なのでしょうか。生き生きしているのでしょうか。その秘訣があります。カレブが求めるヘブロンの町は巨人が住んでいる、城壁に囲まれた大きな町です。しかし45年前もそうでしたでしょうし、40年の荒野の旅の中で経験してきたことでもあったでありましょう。アロンには確信がありました。12節《主が共にいてくださるなら、主が約束してくださったとおり、私が彼らを追い払います》。「主が共にいてくださるなら」。これまでもそうでしたが、今も、これからも主が共にいてくださるなら、主の臨在があるなら大丈夫です。主が共にいてくださるなら、今日も主に従い続けることができる。これが秘訣です。
最後にカレブの信仰は恵みに生きる信仰であります。13節《ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えた》。「相続地」、これまでの聖書では「嗣業」と訳されてきました。それが理解するのが難しくなったということでしょうか、「相続地」という世俗的な言葉で訳されるようになりました。嗣業というのは家庭にある一般的な国語辞典にはありません。広辞苑では「ユダヤ教で、神がイスラエルの民に相続分として与える賜物」と解説されています。これは信仰的、宗教的な言葉なのです。たんなる相続地ではありません。神から与えられた賜物、カレブにとってはヘブロンの町、イスラエルの民にとっては、それぞれ部族ごとに移り住んだ土地、それは神さまからの賜物、預かりもの、いただいた者です。自分のものであって、自分のものではない。本当の所有者は神さまであるという信仰です。神の恵みによって、この嗣業の地をいただいた。自分で得たのではない。恵みによって与えられた。私たちにとっての嗣業の地、神さまから恵みによって与えられたもの、それは信仰です。救いです。また教会です。今日は誰ものでもありません。キリストのものです。神のものです。私たちは恵みによって嗣業としてあずかっている。新約聖書ではエフェソ2章に《あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それはあなたがたの力によるのではなく、神の賜物です》とあるとおりです。信仰は恵み、賜物です。神さまの恵みを忘れてはなりません。