祝福の御言葉

  • 12月1日
  • 聖書箇所:ヨシュア8:30~35
  • 説教:大友英樹牧師

アイの町を占領するとき、アカンが滅ぼし尽くすべきもののことで罪を犯してしまいました。アイの町は神さまにささげるべきものとして滅ぼし尽くすこと、それが求められていました。しかしアカンは欲がはらんで、金の延べ棒などを戦利品として自分のものとしてしまう罪を犯してしまいます。その結果、自分自身がその罪を負うことになります。アコルの谷で打たれてしまいました。その後、アイの町に勝利したのち、ヨシュアに率いられたイスラエルの民が次に向かったのは、そこから北に35キロほど離れたところにある山でありました。それがゲルジム山とエバル山になります。
ゲルジム山とエバル山はシェケムという町の南北にある山です。聖書地図3にはシェケムの町が地図の真ん中のあたりにあるのがわかります。その南北にゲルジム山とエバル山があります。聖書地図9にはゲルジム山とエバル山のしるしがあって、その近くにシカルという町があります。

ヨハネ福音書4章においてシカルの町にある井戸端で、イエスさまとサマリヤの女性の対話が行われたとありますが、シェケムはその近くになります。シェケムやシカルという町は、ゲルジム山とエバル山の間に広がる平地にあって、東西南北に行き交う交通の要所でもありました。ゲルジム山は881m、エベル山は940m、その間にある平原が標高は600~700mぐらいですから、そこから見るとそんなに高い山というわけではありません。イスラエルの民は、ゲルジム山とエバル山の麓にある平原のところにやってきました。
ヨルダン川を渡る前、モーセは申命記を語りながら、神さまが与えてくださった教え、律法について語り教えました。40年の荒野の旅を経験してきましたが、出エジプトの救いのときにはまだ子どもであった者がいました。また荒野の旅の中で生まれてきた人々でありました。そこでももう一度、モーセは神さまの教え、律法を教え諭すのが申命記になります。その申命記11章に《あなたが入って所有する地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき、あなたは祝福をゲルジム山の上に、呪いをエバル山の上に置きなさい》と命じられています。さらには27章にもあります。《あなたがたがヨルダン川を渡ったなら、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンは、民を祝福するために、ゲリジム山の側に立ちなさい。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリは、民を呪うために、エバル山の側に立ちなさい》。ゲリジム山には祝福を、エバル山には呪いを、そのことを宣言しなさいというわけです。

なぜシェケムの町の南北にあるゲリジム山とエバル山なのでしょうか。この前のところで、アイの町を手に入れるために出て行きました。そこはベテルという町の近くにあって、かつてアブラハムは創世記12章にあるように、神さまから「私が示す地に行きなさい」との選びと召しを受けて旅立ち、約束の地であるカナンにやってきたとき、西にベテル、東にアイの間に天獏を張り、祭壇を築いて祈りをささげたところになります。ですから信仰の父、アブラハムのそうしたことを思い起こすときに、イスラエルの民の原点のようなところがベテルとアイの間の地域であります。

それに引き続いて、ゲリジム山とエバル山の麓にひろがる平原にあるシュケルにやって来ます。ここはアブラハムが約束の地、カナンの地に入ってきたとき、最初にやって来たのが、このシェケムでありました。《アブラムはその地を通って、シェケムという所、モレの樫の木まで来た。……主はアブラムに言われた。「私はあなたの子孫にこの地を与える」。アブラムは、自分に現れた主のために、そこに祭壇を築いた》。名実ともに約束の地で最初の祭壇を築いたところ、礼拝をささげたところ、そして神さまからこの地をあなたの子孫に与えるとの約束をいただいたところです。ですからベテルとアイの間がイスラエルの民にとっての原点というだけではなくて、さらに最初に祭壇を築いたという意味では、シェケムこそが、イスラエルの民の原点ということができます。それゆえに、そこに行って、ゲリジム山には祝福を、エバル山には呪いを置きなさいと命じられる。そこから祝福の歩みをはじめなさい。御心にかなわないときいは呪いがある。そのような宣言をしなさいということです。

聖書では方向を定めるときに、東が正面になりました。東が正面なので、神さまを礼拝する幕屋を建てるとき、さらに後にはエルサレムに神殿を建てることになりますが、その正面は東であります。東側に門があります。神さまは東側からおいでになられるということで、その東側が正面になります。そして東を向いて右手の方、そちら側が祝福をあらわす。そして左側が呪いをあらわすというのです。そんなことで、シェケムの町から東を向いて、その右手にあるのがゲリジム山、ですからゲルジム山には祝福、左手にあるのがエバル山、そこでエバル山には呪いが置かれるということです。イスラエルの民は、12部族のうちの半分がゲリジム山に、半分がエバル山に立ちます。その中には寄留者もいたということですから、イスラエルの民ばかりでなくて、その地にする寄留者もまた同じように分かれて立っていたようです。その真ん中には主の契約の箱がありました。神さまの臨在をつげる契約の箱です。そしてエバル山に祭壇が築かれて、そこに犠牲がささげられます。神さまへの礼拝です。それは二つの犠牲のささげものでありました。一つは焼き尽くすいけにえです。その言葉のとおり、すべてを焼き尽くしてしますささげものですから、神さまへの献身をあらわします。「神さま、私たちはあなたに献身します。あなたにおささげします。あなたにお委ねします」ということです。もう一つが会食のいけにえです。これは以前には和解のささげものと訳されていたものです。その犠牲を神さまの前で食するささげものです。ですから神さまとの交わり、和解、感謝、賛美というような礼拝になります。主の契約がある。そこには神さまの聖なる臨在がある。そこで礼拝をささげなさい。献身と交わりの礼拝をささげなさい。これがまずゲリジム山とエバル山で行われることです。祝福と呪を置きなさいということですが、まずその前提として礼拝がささげられる。これはとても大切です。私たちも神さまの祝福の中を歩みたく願うことですが、そのためにはまず神さまに献身と交わりの礼拝をささげることがまず第1であることが教えられます。

そしてそのような礼拝、犠牲がささげられのち、ゲリジム山とエバル山に分かれて立ちます。そしてヨシュアが律法の言葉を朗読します。34節《ヨシュアは律法の言葉、祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおり読み上げた》。申命記27章、28章にある神に従う者に祝福を、従わざる者に呪いをある一連の言葉が読み上げあげられたのでありましょう。確かにそのように祝福と呪いということが読み上げられたのですが、それをみますと、呪いの方が四倍ぐらいの量があります。それだけ人間というには、神さまに従わざる呪いの中にある。罪の中にあるということでありましょう。しかし神さまの御心は、どちらに重点があるかと言えば、もちろん祝福の方であります。33節にはイスラエルの民がゲリジム山とエバル山に立った理由が語られています。《主の僕モーセがかつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった》。祝福こそ、神さまの御心です。イスラエルの民を祝福する。かつてアブラハムに「あなたを祝福し、あなたを祝福の源とし、地上のすべての民はあなたによって祝福される」と約束してくださった神さまでありますから、まずその御心はイスラエルの民が祝福される。約束の地に入って新しい歩みをはじめようとしているイスラエルの民が祝福される。33節には《主の僕モーセがかつて命じたように》とあります。「かつて」とありますが、この言葉は原典ではこの節の一番最後にあります。そこで二つの可能性があります。一つはこの聖書の翻訳のように、「モーセがかつて命じた」と過去の出来事を指しています。大木の聖書の翻訳はそのようになっています。もう一つは「イスラエルの民をまず祝福するためであった」と訳す可能性です。それは第一にイスラエルの民を祝福するということになります。ある英語の聖書では「第一に祝福を宣言する」と訳していました。そういうことであれば、モーセがかつて命じたように、ゲリジム山とエバル山に立って、イスラエルの民を祝福するということだけではなくて、まずイスラエルの民に求められるのは、神さまの祝福であるということです。イスラエルの民がまず祝福されなければならない。神さまの祝福なしに。どうしてすべての民が祝福されることでありましょうか。神の民イスラエルに求められることは、第一に神さまの祝福に満たされることです。祝福というのは、神さまの救いの恵みに満ち、神さまの命に満ちることと言ってよろしいでしょう。神の民に求められることは、それは神さまの祝福です。

ですから私たちが礼拝をささげるとき、その終わりは祝祷となっています。これは礼拝での祝祷というのは、祝福の祈りということではなくて、祝福の宣言であります。私たちは礼拝をささげて、神さまの祝福をいただいて、遣わされていきます。まず神さまの祝福をいただく。これがゲリジム山とエバル山に立つイスラエルの民と同じです。教会はイエス・キリストによって、その十字架と復活によって新しい契約が結ばれて、新しい神の民として集められています。イスラエルの民と同様、クリスチャンに求められるのは、神さまの祝福です。礼拝の終わりに、神さまの祝福をいただいて歩み始める。神さまの救いの恵み、イエスさまの十字架と復活による罪の赦しの恵みに満ち、永遠の命の恵みに満ち溢れる。まず第一に、この神さまの祝福をいただく。Ⅰペトロ3:9に《あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです》とあります。まず神さまの祝福を受け継ぐ者でありなさい。私たちにとってのゲリジム山、祝福が置かれるゲリジム山、そこは今日ささげている教会での礼拝であります。神さまが今日も私を祝福してくださっています。まず私たちこそが、神さまの祝福に満ちたされて、祝福を受け継いでいくこと、このことが求められいます。

祝福の御言葉
トップへ戻る