19節《ヨシュアがアカンに「わが子よ。さあ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白せよ。そして、あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはならない」》。ヨシュアがアカンに問うています。「あなたは何をしたのか」。
イスラエルの民全体の目がアカンに注がれています。ヨルダン川を渡って、約束の地、カナンの地に入って最初の大きな難題は、堅固な城壁に囲まれたエリコの町を占領することでありました。神さまから祭司が角笛を鳴らし、主の契約の箱を担いでエリコの町を巡りなさい。七日目には七周回り、鬨の声を上げるようにと命じられ、そのように従ったところ、城壁が崩れ、エリコの勝利をおさめることができました。そしてエリコの町を神さまにおささげする、献身のしるしとして滅ぼし尽くす、聖書ではへレム、日本語では聖絶と訳しますが、滅ぼし尽くして神さまにおささげする。そういうエリコの勝利がありました。驚くべき神さまの御業がなされ、城壁が崩れさり、滅ぼし尽くす。霊的な意味では、私たちのうちに城壁で囲まれて滅ぼし尽くすべきものがないか。自分自身を神さまにおさささげし、おゆだねしているかということが問われるところでありました。
このエリコでの勝利ののち、次に向かうのはエリコからすると西の方角の山にある小さなアイという町であります。聖書地図3にエリコの西、ベテルの近くにアイがあります。エリコは海面下400mぐらいのころで、アイは800mほどの山にありますから、1000m以上登っていかなければなりません。創世記12章でアブラハムが神さまか選ばれて「私が示す地に行きなさい」ということで、カナンの地にやってきます。最初はシェケム、次にベテルの東の山地に移って天幕を張ったとあります。そこは西にベテル、東にアイがあったとあります。そういうことから言いますと、アブラハムがカンナの地にやってきたときから、このベテルとアイの間に祭壇を築いて、神さまを礼拝した重要なところであったということができます。イスラエルの民にとっては、原点の地のようなところです。ですから、エリコに続いて小さな町でありますが、アイを占領することになったのでありましょう。ヨシュアはエリコのときと同じように、アイに偵察する男たちを遣わします。2節《ヨシュアはエリコから、ベテルの東、ベト・アベンの近くにあるアイに男たちを遣わし、「上って行って、あの地を偵察して来なさい」と命じた》。
この偵察の派遣はエリコのときと同じでありました。ただ違うのは、エリコのときには、ラハブの言葉に《主はあの地をことごとく私たちの手に渡されました》とあるように、主なる神さまが先立たれ、それを与えてくださっているという信仰の確信をもった報告がありました。しかしアイのときにはそうした信仰の確信をもった報告とは言えないところがありました。偵察に行った者たちは報告します。3節《ヨシュアのもとに戻って来て言った。「すべての兵が攻め上るにはおよびません。二千人か三千人で攻め上ればアイを討つことができます。すべての兵に骨を折らせることはありません。彼らは少数ですから」》。エリコの勝利によって気持ちが大きくなっていたところもあったかもしれません。アイの町は少数なので、二・三千人いれば大丈夫と言います。それはうぬぼれ、それとも高慢ともいうべき報告でありましょう。そこで三千人の兵がアイに攻め上りますが、あえなく敗走することになり、兵の心は挫けて水のようになります。
エリコの時は、偵察に行って、神さまが与えてくださるという信仰の確信をもった報告を受けてから、なお備えるときをもちました。ヨルダン川を渡ってギルガルに宿営すると、そこで自らを神の民として聖別するために割礼を施します。そして過越の祭りを祝います。神さまの救いの御業をほめたたえるのであります。さらに抜き身の剣をもった主の軍勢の長が「履物を脱ぎなさい。聖なる所だから」とモーセがシナイ山で敬虔したような聖別と献身がなされます。そうした備えがなされるとき、神さまが約束の言葉をもって命じます。「私はエリコとその王、力ある勇士たちをあなたの手に渡した。エリコのまわりを角笛を吹き鳴らして、主の契約の箱を担いで巡り歩きない」。神さまの聖なる臨在が、エリコの城壁を崩れ落ちたのです。しかし残念ながら、アイのときにはそのような備えがありませんでしたし、神さまの約束の言葉もありませんでした。ただ「彼らは少数ですから」と人間の目論見、計算で進もうとします。それは神さまの聖戦ではありません。たんなる人間の営みにすぎません。それゆえ敗走する。心が挫ける。
Ⅰコリント10章には、旧約聖書に書かれていることについて、それは警告のためだと語っていますが、このアイでのことも霊的な警告があると思います。神さまの約束の言葉を待ち望みながら、神さまの御業のために用いられるために自分を聖別して、神さまのみこころを祈り待ち望む備えがなされているだろうか。以前、青山学院で首都圏キリスト教大会という集会を準備していた時、「祈りより先に行くな」ということを教えられて、印象深く記憶に残っています。「祈りよりも先に行くな」。霊的な備えもなしに、「ただ少数ですから」という人間の目論見で神さまの御業は進められることはありません。クリスマスの集会を前にしているときであります。今年も例年と同じような集会でありましょう。だからと言って「ただ少数ですから」と同じように、「いつものことですから」というようであればアイの経験が私たちのものになるのではないだろうか。警告として聞かなければなりません。
さて、ヨシュアはこのときどうしたでしょうか。6節《上着を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地に顔を付けてひれ伏し、頭に灰をかぶった》。ひれ伏して悔い改め、そして嘆き呻きます。神さまは語られます。10節からお読みします。《立ちなさい。なぜ、そのようにあなたはひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。私が命じた契約を破り、滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出し、盗み、欺いて自分たちの持ち物の中に置いたのだ。だから、イスラエルの人人々は敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けることになった。自分が滅ぼし尽くすべき献げ物となったからだ。…イスラエルよ、あなたの中に滅ぼし尽くすべき献げ物がある。滅ぼし尽くすべきものをすべてあなたがたの中から取り除くまでは、敵に立ち向かうことはできない》。エリコの町を占領するとき、すべて滅ぼし尽くすべきもの、神さまのものとしてささげなさい。手を出して自分の物にしてはならないと命じられていました。それが神さまの命じられた契約です。それを破った。罪を犯した。それゆえ、あなたがたが、イスラエルの民の方が、滅ぼし尽くすべき献げ物となったのだ。明日に備えて身を清めよ。滅ぼし尽くすべきものを明らかにする。イスラエルの中にある罪が、十戒の後半の方の盗んでならない、欲してはならない、偽証してはならないということに抵触する罪がある。あなたがたが滅ぼし尽くすべきものとなった。
そこで次の朝、くじが引かれます。12部族の中からユダ族がえり分けられます。くじを引いて「えり分ける」というのは、「縄で捕らえられる」と言う意味もありますから、犯人があぶり出されていくわけです。ユダ族の中からゼラの氏族、ゼラの氏族からザブディの家族がえり分けられ、アカンがえり分けられ、縄で捕らえられます。19節《ヨシュアがアカンに「わが子よ。さあ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白せよ。そして、あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはならない」》。アカンは美しいシンアルの外套、つまりバビロンで作られた外套一着、銀二百シェケル(2㎏)、金の延べ棒一本50シェケル(500g)、それらが欲しくなって天幕の地面の下に隠していました。それらが掘り出されて主の前に広げられます。これらのものは滅ぼし尽くすべきものであったにもかかわらず、神さまにささげることができず、欲しくなって手にとってしまい、盗み、欺き、天幕に隠し持っていたというのです。アカンは滅ぼし尽くすべきものをないがしろにしたゆえに、自分自身が滅ぼし尽くすべきものとなってしまう。そしてアコルの谷に引かれていき、そこで石で打ち殺され、全財産が火で焼き払われ、石塚が立てられます。アコルと災いということです。これもまた警告として石塚が立っています。
アカンが求められたことは、「主に告白せよ」ということでした。それは口で告白するだけではなく、滅ぼし尽くすべきものを主の前に明らかにすることでもあります。そして自分が滅ぼし尽くすべきものとなれということでその裁きは厳しい。罪の支払う報酬は死であるとありますが、やがてそうなるということではなくて、今ここで滅ぼし尽くすべきものとなれと石に打たれる。神さまは神さまとの契約を破る罪に目をつぶり、見逃すことはなさらない。神さまは義であられ、聖であられるゆえに、罪をそのままにすることはできない。旧約聖書では罪のために犠牲がささげられて、それによって罪が贖われる、赦されるというのではありませんか。ここでもアカンが犠牲をささげればいいのではありませんかと言われるかもしれません。罪の支払う報酬の恐ろしさを思います。
このことを警告とするときに、新約の恵みに生きる私たちがどんなに大きな恵みをいただいているかを思わざるを得ません。「主に告白せよ」、アカンはそれによって滅ぼし尽くすべき者とされました。しかし新約の恵みに生きる私たちには「主に告白せよ」と命じられるとき、罪の支払う報酬に恐れおののくばかりの者でありますが、神さまが神の御子イエス・キリストを十字架にささげてくださって、私の身代わりにイエスさまを滅ぼし尽くすべきものしてくださって、燃える怒りをその十字架によって収めてくださいました。ですから私たちが「主に告白せよ」と命じられるとき。Ⅰヨハネ1:9に《私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます》とあるように、赦しがある。イエスさまが十字架によって、私の身代わりに滅ぼし尽くすべきとなってくださったゆえに、主に告白する者に赦しがある。それゆえに、あなたの罪を主に告白せよ。あなたにはイエスさまの十字架があるからです。アカンの警告を見る時、ますますイエスさまの十字架の恵みを味わいたい。